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「ちょっと自民党にお灸を…」そんな思いが大惨事を招くかもしれない

当選者たちは責任をとれるのか
楡 周平 プロフィール

小池氏が掲げる「しがらみのない政治」にしたって、そもそもしがらみのない政治なんてあるのだろうか。

比例はまだしも、選挙区選出の議員は、国はもちろん、地元のために働く任も担っている。当然誰しもが支持基盤を持つわけで、そこには必ずしがらみが生ずる。支持者の意向を無視した議員活動など、できるはずがない。当の小池氏にしたって、希望の党の設立に際しては、前原氏と神津里季生連合会長と三者会談を行っていたではないか。それとも、連合は「小池さん、何をやろうと私たちは一切口を出しません。私たちは全面的にあなたを応援します」と無条件に支持を表明したとでもいうのだろうか。そうではないだろう。それをしがらみというのだ。

 

担ぐ者も、担がれる者も…

もし、今回の衆議院議員選挙で、希望の党が大勝することになれば、それは小池氏に投じられた票であることに間違いはない。なぜなら、解散前の民進党の支持率では、自公連立政権を倒すことは不可能だからだ。

そして、その時議員になるのは、政治塾の出身者の新人議員と、看板を替えただけで、人そのものは変わらない民進党、生活の党を始めとする野党の現職。それも、これまでの政治信条をいとも簡単に覆し、「安全保障」と「憲法改正」に同意した議員ばかりである上に、希望の党の公認がなければ当選できなかったとあっては、もはや小池氏の意向には逆らえまい(ただし、常識ある人間ならばの話だが)。政治塾出身の新人議員に至っては、都民ファーストの会同様、「取材は一切受けるな」というお達しが出るかもしれない。そして、閣僚には、あの民主党政権時代の面々が顔を揃えることになる。

さて、そうなった時、いったい何が始まるのだろう。

それこそ独裁ではないか。

民主主義の政治の世界では、最終的にすべてのことが多数決で決まる。当たり前の話だが、頭数が可否を分けるのだ。

かつて、とある政治家が「担ぐ神輿は軽くてパーがいい」と言ったそうだ。

古くから使われる言葉というのは面白い。「七転び八起き」に対して「七転八倒」、「三度目の正直」に対して「二度あることは三度ある」、逆の意味を持つ言葉が多くある。これに倣えば、「神輿を担ぐ人間は、数が多くてパーがいい」という言も成り立つだろう。議員の職にしがみつくために、雪崩を打って希望の党からの出馬を目指す、節操の欠片すら感じられない民進党議員の姿を見ていると、そんな言葉が脳裏に浮かんでくる。