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読書人の雑誌「本」

語り手の視点はどうやって養われるのか。芥川賞作家が考えた

滝口悠生の最新作『高架線』にちなんで

「神の視点」なんてない

今回は、というか、今回も、なのだが、西武線沿線を舞台とした「高架線」という小説を書いた。

20代後半で実家を出るまで、埼玉の西武池袋線沿線で過ごした。西武池袋線の沿線住民は、どこへ出かけるにもまず池袋に出る。新宿へも、渋谷へも、上野へも、まず池袋に出てから。同じ県内の大宮あたりに行くにも一旦池袋に出てからの方が行きやすかったりする。沿線住民にとっては、池袋駅が世界の入り口である。

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そんな話をすると、眉間にしわを寄せ、池袋ってなんか苦手、と言う人もいる。私の経験上、それはかなりの確率で東急線ユーザーである。東急沿線住民は、池袋駅をターミナルとして利用する必要がなく、めったに用事の生じない埼玉方面への勝手口みたいに思っているふしがあり、その言いぶりがしばしば鼻につくのだ。

 

とりわけ、東京に出てきて、なんとなく洒落たイメージに惹かれて東横線とか田園都市線沿いに住みはじめ、そのままなんとなく東急沿線を離れない地方出身の女性にそういう人が多い。というのはもちろんほとんど私怨に近い偏見だが、西武と東急の敵対関係は実際根深く、元を辿れば話は両社の沿革に及ぶ。

そのへんは原武史さんの著書などに詳しいが、今回私が書いたのはそういう話ではなく、池袋から下ってふたつめの東長崎という街にあるボロいアパートの住人たちの話だ。

ところで小説の語り手というのは不思議な存在で、語り手がいない小説というのはないのだが、考えはじめるとそれがどんな者なのかよくわからなくなってくる。たとえば三人称多視点の語りは「神の視点」とか言われるが、別に作中に神が現れるわけではない。随意に語りをコントロールする語り手の立ち位置が「神」に仮託される。が、そこに神がいない以上、この呼称はあまり適当でないように思う。

いずれにしろ「神」などというものが出てきてしまうほどに語り手というのはよくわからないのだが、それが誰かとか、何処かというのは結構どうでもよく、「高さ」みたいなものと考える方がいいのではないか、と私は思っている。

条件反射のように思い浮かぶ風景

私たちは、ふだんものを思う時に、自らのことを客観的に考えたりするが、その客観を支えるのは、自らを俯瞰するような誰のものでもない視線であり、それは見上げるような(ということは向こうから見下ろされるような)「高さ」なのではないか。

自分の視界と同程度の高さも客観たりうるが、その高さにあるのは人間、つまり具体的な他人の視線であり、結局誰かの主観でしかない。