エンタメ

「ひよっこ」朝ドラ史上異色の主人公が教えてくれた人生で大切なこと

嗚呼、もうすぐ終わってしまう…
堀井 憲一郎 プロフィール

ただ毎日の仕事をしっかりやればいい

このドラマの凄みは、主人公は成長しない、というところにあった。

善きものとして田舎で存在していたみね子は、そのまま都会でも善きものとして存在しつづけている。それは成長ではない。善きものであるかぎり、そのまま変わらずそこ在るのがよいのだ。

そういうドラマである。

そもそも〝成長して役者が変わる〟ということがなかった。

みね子は高校3年から21歳までだから、まあ大丈夫であるが、みね子の妹弟も変わらなかった。弟の進は、たぶん小学2年が6年になっている(推定)のはずだが、同じ役者で通した。田舎の家は変わっていない、ということを示していて、またこのドラマは成長を描いていないのだ、というメッセージが込められている。

人は、こまめに成長しなくていいんである。

ただ毎日の仕事をしっかりやればいい。

大人になったら、一瞬のうちに変わるものなのだ。間違っていることに気づけば、即座に変わればいい。あまりそれは成長とは言わない。大人は成長しなくていいんである。大人は豹変すればいい。そして、もとから善きものは、死ぬまで善きものであればいい。

なんというか、土着的なものからの地の底からの教えに聞こえてくる。

ドラマ第1話では、弟の進がズック靴を破ってしまい、すぐ上のちよこと一緒に直そうとしているのをみね子に見つかった。みね子姉ちゃんは、なにやってんのとやさしく怒り、姉ちゃんが直してやっがら、と針と糸とで縫いだしたのだけれど力をいれすぎて破ってしまい、妹弟ともにとても哀しい気持ちになるというシーンがあった。

この、何ともいえない小さい世界の出来事が、ついに156話まで貫かれ、見ている者を離さなかった。

 

ラスト前4話になって、みね子は父から、もう仕送りをしなくていい、と言われた。つまりもといた共同体とのつながりが切れるわけである。父ちゃんは、みね子のことを考えて、農家の仕事を増やして、仕送りしなくていいようにしてくれたのだけれど、それは、もう、もといた共同体と無理につながってなくていいという宣言に聞こえた。

やさしいからこそ、聞いていてとても哀しかった。

久しぶりに帰った田舎のバスがワンマンカーになっていて、車掌の二郎さんがいなくなってるのと同じように切なかった。

(私も子供のときはバスで通学していたのだが、記憶によると私の乗っていた京都の市バス1番系統の玄琢ゆきがワンマンカーになったのは1968年の秋からだった。記憶によってるので正確かどうかわからないが、しかしなんでこんな細かいことを覚えているのか、自分でもわからない〔日付が10月1日だった、という記憶まである〕)。

人はいまいるところで目の前のことを処理していればいい、と繰り返し教えてくれた。

そして大事なのは、きみはいま、しっかり生きるために、共同体にいますかとも問いかけてきた。

近所に住んでるだけで(同じアパートに住んでいるだけで)家族のように暮らすという地縁共同体は、いまはもうあまり見られない。東京の赤坂のようなエリアには存在しないだろう。

また、あそこまで親しく協力しあう血縁共同体つまり家族も、あまり見かけなくなった。どっかにはあるんだろうけれど、でも私は知らない、という気持ちになってしまう。ひょっとしたら、もう、ほとんどないのかもしれない。

そしてこの時代から生きていた者としては(私はおそらくみね子の弟の進とだいたい学年が同じである)、そういうのを面倒がって、都会での一人暮らしを始めたということがある。そういう世界はあったかいけど、また鬱陶しいという気分から、そういう共同体を抜け出していったのである。

おそらくすでに存在しないだろう共同体を描き(ただしその善き側面だけを描き)いまはもうそこには戻れないだろうということも悟らされた。

みね子が親掛かりの高校生だった時代から、一人の大人として生きる段階までも描き、大人になることは、悲しく切ないということを示してくれた。日本の社会の動きもまた、悲しく切ないものだったのではないか、ということである。

いいドラマだった。

終わったらどうしたらいいのか、ちょっとわからない。

若者殺しの時代クリスマス・ファシズムの勃興、回転ベッドの衰退、浮遊する月9ドラマ、宮崎勤事件、バブル絶頂期の「一杯のかけそば」騒動……1980年代、あの時なにが葬られたのか?