米国の「負け犬白人層」にそっくりな層が日本に生まれつつある気配

キーワードは「旭日旗」だ
川崎 大助 プロフィール

変化しようとしない、間違いを認めようとしない、という点ももちろん問題なのだが、そもそもそれ以前に、この旭日旗のような件では、許容と排除にかんする選択権が「自分の側にある」かのように考えてしまう(だから反発する)というのは、完全なる錯誤だからだ。「負け犬」に選択権などあるはずないのに。

 

たとえば、アメリカの旧南部連合諸州に、南軍旗やリー将軍像の処遇についての完全なる自己決定権など、あるわけがない。連邦との関係性のなかで当たり前に、ひとつひとつ、民主的な手続きを経て決めていくしかない。どれほど「北軍側」が嫌いだろうが、しょうがない。戦争に負けるというのは、そういうことだ。

敗北という事実

これとまったく同じ論理で、日本人には、旭日旗の処遇について自ら決定できる根拠がない。勝者側、あるいは、かつて権利を侵害されていた側によって定められたことに、従っていくしかない。

なぜならば、日本人は全員が「負け犬」だからだ。「総力戦」で第二次大戦を戦って、「一億総懺悔」までしたのだから、このとき、国民の全員がまさにこれ以上ないほど完璧な負け犬となった。

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しかも戦後、日本以外のアジア諸国はみんな「勝者」となった。欧米や日本の植民地支配や干渉から独立へと歴史を進めていったのだから、まさしくそれは「民族の勝利」と呼ぶべき輝かしい瞬間だったことだろう。

そんなアジアじゅうの歓喜のなかで、ただ日本だけが「負けて」いたわけだ。ジョン・ダワーが言うとおり、すべての国民が等しく「敗北を抱きしめて」いたのが、かつての日本だった。

そして「抱きしめて」いられたころのほうが、まだ幸福だった。正常だった。いまとなっては、なぜか「負けた者の立場」を忘れる者が、日本には少なくない。アメリカという「最強の戦勝国」につねに庇護されている、という感覚が悪いのか。

かつてブラジルの日系人社会にいたという、敗戦の事実を認めようとしないで「勝ち組」と呼ばれた人々ではないが、「敗北という事実」をうまく咀嚼できなくなった日本人が、最も感情的な旭日旗の擁護者となる傾向がある。

そして、大多数の日本人の「負け」は、なにも第二次大戦後から始まったわけではない。さらに、(一部の「憤る」人が誤解するように)戦後すぐに、徳政令的に「負け分」が帳消しとなったわけでもない。

言い換えると、あらゆる方向からつねに「まるで負けているかのような状態が持続するように」巧妙に設定されている者こそが、日本の庶民なのだ。じつは戦争に負けるずっと前から。

この「庶民」の別名、これを悪し様に言う呼称がある。これこそが「日本版ヒルビリー」に一番近い概念だ。もうおわかりだろう。それは「百姓」だ。そして百姓が侮蔑語として機能するような環境を作り上げた、戦後日本社会の歪みについて、次回は書いていこう。

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