米国の「負け犬白人層」にそっくりな層が日本に生まれつつある気配

キーワードは「旭日旗」だ
川崎 大助 プロフィール

そして、これらのアーティストよりも、音楽面でも外見でもよりエクストリームな領域を指向する者がメタル界には多かったので、「普通の日の丸」ではなく、より派手なものへ……ということで、放射状の旭光入りの旭日旗デザインへと手が伸びていったのではないか、というのが僕の推理だ。

その後も欧米のポップ音楽界では、旭日旗デザインは完全に定着している。これを使用するミュージシャンはあとを経たない。記憶に新しいところでは、アメリカのホワイト・ストライプス、イギリスのMUSEの例があった。

そして2013年には、現在のR&Bシーンで最も成功しているアーティストのひとり、フランク・オーシャンが、旭日旗デザインの「バンダナ」を、まさにねじり鉢巻のようにして着用している写真が話題となった。これらの動きは、ときに批判され、ときにまったくの無風状態で、今日まで続いている。

ドイツ軍の鉄十字

こうした旭日旗の浸透をポップ文化史的文脈のなかに置くと、近しい例を挙げることができる。ドイツ軍の鉄十字マークが似ている。同マークは軍事関連のデザインではあるものの、ナチス・ドイツ期以前から同国では使用されていた。

だから、鉄十字は戦後西側のポップ文化のなかでごく普通に許容されていた。プラモデルのデカールとしてはもちろん、トイカーやTシャツ、スケートボードなどにも使用されていた。アメリカやイギリスなど、連合国側で、おもに若者向けに。

 

同じドイツ起源の軍モチーフでも、ナチスのハーケンクロイツ(カギ十字)や親衛隊のSSマークは、鉄十字とはまったく意味が違う。これらは絶対的な禁忌であり、いついかなる場合でも、それを身につけることは、まず最初に真性のナチス賛美者を意味する。人類と人道への敵対を意味する。

でなければ、きわめて凶悪なモーターサイクル・ギャングか、セックス・ピストルズのシド・ヴィシャスぐらいのはぐれ反逆児か……つまりこっちはこっちで、アウトローであり社会的落伍者であるという意味での「危険人物」となる、そんな人間しか手を伸ばさない「邪悪の象徴」だ。

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これらと比較すると、鉄十字マークを身につけることは――決してノーブルな趣味ではないが――かろうじて良識の「許容範囲内」だった、と考えていい。そして前述のように、欧米のポップ文化のなかにおいて、旭日旗にもほぼ同様の居場所があった。「あった」と、過去形にならざるを得ないのだが。

なぜならば、近年の旭日旗批判のなかには、ハーケンクロイツと同一視する意見も少なくないからだ。あれは「鉄十字」ではなく「カギ十字」なのだ、と。だから「許してはならない」と……これは、決定的なひとことだ。95年、アトランタ元市長のメイナード・ジャクソンが、南軍旗を「アメリカのスワスティカ(カギ十字)だ」と批判したのとまったく同じ主旨だ(詳しくは前回の記事をご参照いただきたい)。

ジャクソンのこの比喩は、今日にまで至る「南軍旗排除」の最初のきっかけ、理論的支柱として機能した、と僕は考えている。そして旭日旗に対しても、まさにこれと同様の「最初の一滴」は、すでにもう世に放たれているわけだ。だからいずれ「この一滴」から生じた流れが、すべての旭日旗を彼方まで押し流してしまう大河とならざるを得ない。論理的にすべてが進むならば。

と、このような状況下のただなかにあって、旭日旗排除に「憤る」人がいる。憤りの出どころ、その一番最初のところにあったものは「驚き」だろう。「これまでは大丈夫だったのに」という、驚きだ。羞恥心もあるはずだ。問題あるものを「ない」と思い込んでいたなんて、まるで馬鹿者みたいだからだ。

ふたつの道

さてここで、ふたつの方向へと進む、分かれ道があらわれてくる。ひとつは「間違いを認める」という道だ。「これまで」の認識に誤りがあったのなら、その部分を是正して、未来の自分を形づくっていけばいい。自分自身が能動的に「変わる」ことで、よりよい可能性がある世界へと歩を進めていく、という道がある。

もうひとつは、「間違いを認めない」という道だ。考えたこともなかった「意外な意見」に対して、人は強い反発心を抱くことがある。その感情に飲まれたとき、この「ふたつ目の道」へと、その人は容易に進んでいく。「恥をかいた」ことが耐えられなかったり、最初の「驚き」のショックが大きすぎた場合に、うろたえてしまって、いわゆる「逆ギレ」のような症状が出る、ことがある。

つまり「新しい情報や知見」に対して、強い拒絶の態度を示すわけだ。だから自分自身は一切変化しない(できない)。それどころか「いや、間違っているのは、悪いのはお前のほうだ」と、あらんかぎりの方法で反撃を始める、ことすらある――。

言うまでもなく、後者の心の動きこそが「ヒルビリーの第一段階」となるものだ。