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野球

酒豪のエース投手・安仁屋宗八、マウンドを去りカープ黄金時代を築く

新日本野球紀行(4)

広島カープの監督に就任したジョー・ルーツとの折り合いが悪く、阪神にトレードされた元プロ野球選手の安仁屋宗八氏。一度は引退を考えたものの、移籍後はリリーフとして最優秀防御率とカムバック賞に輝き、オールスターにも出場した。この成績を出せたのは“女房役”の田淵幸一氏の「気遣い」のおかげだと話す。

その後再び広島カープへ復帰したが82年に引退、その後二軍コーチ、一軍コーチ、二軍監督を歴任し三度のリーグ優勝に導いた。別名「巨人キラー」と呼ばれた”酒豪のエース投手”の半生を振り返る、大好評連載、最終回。

第3回はこちら→http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52878

「あんまり飲み過ぎんように……」

――安仁屋さんは、1979年まで阪神でプレーして80年、広島に復帰します。どういう事情があったのでしょう?

安仁屋 本当は79年限りで引退して阪神の二軍コーチに就任する予定だったんです。小津正次郎球団社長に「オマエ、二軍のコーチやらんか?」と言われ、「はい」と僕も一度は了承したんです。ところが家に帰ると、広島の古葉(竹識)監督から電話がかかってきていた。女房が出て「古葉さんが電話くれ言うてるよ」と。

それで古葉さんに電話すると、「オマエ、まだ現役続けたいんか? 未練があるんか?」と聞いてくるんです。どうやら、どこかの記者が「安仁屋は阪神をクビになった」と古葉さんに伝えたんでしょうね。

――それで安仁屋さんはどう答えられたんですか?

安仁屋 まずは球団(阪神)に行って、小津さんに正直に話しました。「カープから“現役を続けんか”という話が来てるんですけど、戻っていいですか?」と。すると「あぁ、だったら帰りなさい」と快く送り出してくれた。

 

おそらく古葉さんは山本浩二あたりに聞いたと思うんですよ。“ハチ(安仁屋のニックネーム)はまだ使えるんか?”と。それで浩二が“まだいけるんじゃないですか”と言ってくれたようなんです。

――安仁屋さんは復帰したカープで80年、81年と2年間プレーしたわけですが、この頃はカープの全盛期です。投手陣も充実しており、2年間で3試合しか投げることができませんでした。

82年に二軍投手コーチに就任、その後は一軍投手コーチ、二軍監督などを歴任し、3度のリーグ優勝(84年、86年、91年)と一度の日本一(84年)に貢献しました。

安仁屋 一軍では古葉さんが先発ピッチャーを含め投手陣のことは全て僕に任せてくれました。“オマエが何でも決めろ!”とね。だから投手交代も僕がやっていました。

――安仁屋さんと言えば「酒とインコース」です。教え子の川口和久がそう語っていましたよ(笑)。

安仁屋 まず酒ですが、確かに遠征先では毎日、選手たちを飲みに連れ出していました。勝ったら勝ったで「よかったのォ、まぁ飲めや」、負けたら負けたで「じゃあ次頑張れ!」となるんです。

――とにかく何か理由を付けて、毎日飲むわけですね(笑)。

安仁屋 僕らが現役の頃はそれが当たり前でしたから。コーチになってからも、その習慣は変えませんでした。

――酒で印象に残っているエピソードは?

安仁屋 あれはリーグ優勝を果たした1991年のことです。この年は津田恒実を抑えに使う予定でいた。ところが春先から「頭が痛い」「風邪気味じゃ」言うてなかなか調子が上がってこない。結局は脳腫瘍だったんだけど、その頃はまだわからなかった。

あれは日本シリーズの前頃でしょうか。監督の浩二や大下剛史らスタッフ皆で津田を病院に見舞った。「日本シリーズはオマエを投げさせるからな」と言って励ましましたよ。津田はベッドの上に寝たきりで目ん玉だけしか動いていなかった。

帰り際、奥さんがダァーッと追いかけてきて「安仁屋さん、主人が呼んでいます」と言うんです。それで引き返したら、津田が奥さんの耳元で何かつぶやいている。「何て言ったんですか?」と聞いたら「安仁屋さん、あんまり飲み過ぎんように……」って(笑)。