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野球

沖縄野球の「原点」きみは安仁屋宗八を知っているか

新日本野球紀行(1)

近年、高校野球では沖縄県勢の躍進が目立つ。1999年と2008年のセンバツで沖縄尚学が優勝、2010年には興南が史上6校目となる春夏連覇を果たしている。プロ野球に目を転じると、現在、沖縄の高校を出た者は22人もいる。今では球界における一大勢力だ。

広島カープや阪神タイガースで活躍した安仁屋宗八は、沖縄県出身の初のプロ野球選手として知られている。現役時代は右バッターの懐をえぐる鋭いシュートボールを売り物にした。また豪放磊落な性格で球界屈指の酒豪とも言われている。開幕間もないある日、カープの本拠地マツダスタジアムに72歳の安仁屋を訪ねた。

高校で野球をするつもりはなかった

――安仁屋さん、お生まれは?

安仁屋 那覇市の垣花というところです。終戦1年前の生まれですが、大分県に疎開していたので沖縄戦の記憶はありません。戦後は那覇市の壺屋というところに戻りました。

戦争の記憶はないのですが、赤ん坊の時空襲に遭い、家族が僕を連れて防空壕に逃げ込もうとした、まさにその直後に爆弾が落ちてきて生き埋めになったそうです。幸い、僕は赤い服を着ていたので助かった。目立つ僕を、母親が必死になって救い出したそうです。あと数十分、いや数秒遅れていたら、僕は今、この世にいなかったでしょう。

 

――凄絶な体験ですね。で、野球を始めたきっかけは?

安仁屋 親父は漁師で野球には興味がなかった。ただ僕の上の兄貴2人が野球をやっていた。四男と五男で、僕は11人兄弟の八番目なんです。だから名前は宗八。五男は社会人野球の琉球煙草にまで進みました。

――当時の沖縄は野球が盛んだったのでしょうか?

安仁屋 とても盛んでしたよ。社会人のチームだけで八つくらいあったからね。Aが硬式でBが準硬式、そしてCが軟式。特にCが多かった。

ただモノはなかったね。グローブは手づくり。テントを素材にしたもので、中に雑巾を詰めていた。母親が縫ってくれましたよ。バットは焚火の時に使うような木。当時の沖縄の少年たちは、皆それで遊んでいました。

――高校は沖縄高校(現沖縄尚学)ですよね。今では全国的な強豪校です。

安仁屋 本当は高校まで行って野球をやりたくはなかった。そこまで野球に対するこだわりはなかったからね。強いていうなら那覇商かなと。兄貴がそこでやっていましたから……。

――結果的には進学した沖縄高で、沖縄県勢としては初めて地区予選を勝ち抜き、甲子園出場を果たすことになるわけです。1962年の夏の大会です。

安仁屋 沖縄県勢としては1958年、第40回の記念大会ということで首里高が初めて甲子園に出場しています。しかし、それからは3年続けて南九州大会で負けていた。宮崎のチームに勝てなかったんです。

――当時の南九州大会は宮崎と沖縄の戦いだったんですか?

安仁屋 そうです。宮崎と沖縄で1年置きにやっていた。僕の時も、いわゆる敵地ということもあって宮崎県勢に勝つのは難しいだろうといわれていた。というのも当時、高鍋に清俊彦という後に西鉄、近鉄に進むピッチャーがいて、これが九州ナンバーワンの評価を得ていたんです。

ところが宮崎県の決勝で高鍋が負けてしまった。僕らが見ている前でね。それで勝った大淀高と戦うことになったんです。

――あの清が打たれたんですか?

安仁屋 いや、たまたま相手の打球が足に当たったんです。ピッチャーライナーを避けきれなかった。それから、おかしくなって確か1点差で負けたんじゃなかったかな。ウチの監督が「清が来たら、オマエらまず打てんぞ」と言ったのを覚えていますよ。