現代新書

「読書はなんの役に立つのか」に対する、ひとつの答え

誰も教えてくれなかった『本の読み方』
橋爪 大三郎 プロフィール

読むという作業は、絵でたとえると、デッサンみたいなもの。いきなり絵は描けない。誰でも、デッサンを練習する。デッサンは対象をとらえて、輪郭を描くでしょう。デッサンを踏まえて、その上に、色を塗っていくわけです。

デッサンは、画用紙に鉛筆かチャコールがあれば、すぐできるでしょう。目があって手があれば、誰だってできそうだ。

でも、やってみればわかるが、簡単じゃない。絵の中で、デッサンがいちばん難しい、と言うひともいるぐらい。

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いいデッサンや正しいデッサンは、あるとしても、あらかじめあるわけじゃない。努力して手を動かすと、ようやくそこに現れてくる。いい読解や素直な読解も、あるかもしれないけれど、やってみないと、それがあったことにはならない。

ここまでが、一般論ですね。

テキストの構造

では、もう少し具体的に、考えていきましょう。

テキストに意味があるのは、どのようにか。

意味は、構造をそなえているのです。

 

まず、文の構造。主語があって述語があって、意味はそれなりに複雑な構造を持っている。その文が並んでいくと、段落になって、あるまとまった思想を表現する。それがさらに、節になったり、章になったり、かなり立体的な構造を持てるわけです。

これが、テキスト。それを順番に読んでいきながら、だんだん、そのテキストの高度な構造が、頭の中に描かれていく。それを理解し、味わいながら、本を読んでいく。

ふつう、読むスピードは、それなりに速いでしょ。声を出して読み上げる場合のスピードより速いスピードで、読んでいるひともいると思う。と言うか、たいていのひとは読み上げるスピードよりも、目で読むスピードのほうが速いですね。

だから、けっこう頭には負荷がかかる。

書いてないこと

書いてあることを読む。これは初歩の読み方だ。

書いてないことを読むのが、ちょっと上級の読み方。

これは、行間を読むのとはちょっと違う。

著者は、いろんな可能性があるのだけれど、その中でこのことを、選んで書いている。そこに選択があるんです。選択とは、これを書くと決め、同時に、これを書かないと決めること。だから実は、書かないことだらけです。

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大事なことなのに書いてない。うっかり書いてないのかもしれない。フロイト的な意味で、抑圧がかかっているかもしれない。本人が意識していなくてね。あるいは本人が意図的に書かないことにしているのかもしれない。理由はわからないけれど、テキストって必ずそういう二重性、ポジとネガを持っているわけです。

論理・定義・前提

それを踏まえて。

サイエンス(自然科学)とか、ソーシャル・サイエンス(社会科学)とか、そういう知的な構造物の場合、その中心になるのは、論理です。論理を使い、論理に従って書かれている。

論理のモデルは、数学なんです。

数学を思い出してみると、まず、議論を始める前提としての言葉の約束、定義がある。定義が明示してある場合が多い。新しく出てくる言葉の数だけ、定義がある。

つぎに、前提がある。

前提とは、その本の中では解決されないで、所与として与えられていて、そこから議論が始まるものですね。数学なら公理。本だったら、前提とか仮説とかよばれる。

たとえば、よくある前提。「人間は平等です」とか、「自由は尊いです」とか、「人権は大事です」とか。そういうことは、この本のテーマじゃないからまったく書いてない。けれど、著者はそう確信していて、それを前提に、議論がのべられている。

親切な著者は、その前提を、本の最初に書いてくれています。私は自由主義者で、ヒューマニストで、だから人権が大事ですよ。さあ、そういう前提で議論を始めましょう、って。

でも、そういう本は少ない。

少ないのは、もしそれをやると、それだけで何ページも使ってしまうというのがひとつの理由。

もうひとつの理由は、著者が自分の前提に自覚的でない、必ずしも。ここが数学と違うところで、数学は必ず自分の前提に自覚的です(じゃなければ、証明ができません)。ところが、論理的なつもりの、さまざまな人文系の著者が、そこまで実は論理的でない。前提が曖昧なまま、議論が始まってしまう。

本を読むとは、その前提を発見すること。書いていないのに発見するんです。これはひとつの読み方ですね。

ふつうの人もそれをやっています。この著者は、こういう立場なんだ。読んだらわかったって、前提を発見しているわけですね。結論は、結論ですって書いてあるけど、前提のほうは、必ずしも書いてない。これも、読み方ですね。