メディア・マスコミ 不正・事件・犯罪 ライフ

不倫には厳しいのに、暴力は許す「この国の大人の恥ずべき感覚」

山尾志桜里と日野皓正のあいだ
原田 隆之 プロフィール

暴力を許してはいけない理由

愛のムチであろうが、何だろうが、理由をつけて限定的に暴力を容認するのは筋違いも甚だしい。体罰に教育効果がないことについては、数多くのエビデンスがある。

たとえば、カナダの心理学者ジョアン・ドゥラントらは、過去20年の体罰に関する研究をまとめ、体罰には教育効果がないばかりか、子どもの攻撃性を高め、抑うつ、不安、アルコール・薬物依存、不適応など数々の害をもたらす恐れがあることを警告している。

アメリカの心理学者ウィリアム・ミラーは、「脅迫、不安、罪悪感、恥、屈辱などの体験は、行動を変える原動力にはならない」とはっきりと述べている。

 

また、いくら殴られたほうが非を認めて謝ったからといって、殴ったことの正当化はできない。あれだけニュースになって大事になれば、子どもであれば、大の大人、しかも世界的有名人を前に謝らざるを得ないだろう。これだけの明白な力のアンバランスがある相手に、暴力を振るったことがそもそもおかしいのである。

確かに、あの場面でこの中学生は自己中心的な振る舞いであったし、暴走していた。反抗的な態度も見せていた。しかし、長年親子のように指導してきたのが本当ならば、これまでに彼のそのような性格を見抜けなかったのだろうか。

調子に乗るタイプだ、暴走したら止まらないという傾向があるのなら、指導者はそれを指導のなかで把握すべきであるし、場合によっては舞台に上げないという選択もあるだろう。

何より、地道な指導をして、彼の成長を促してから舞台に上げるのが指導者の役目である。それを疎かにしたのは、まぎれもなく指導者の責任である。

にもかかわらず、演奏会が台無しになったことの結果をすべて子どもに負わせて、暴力で屈服させ、謝罪させる。この行為のどこに擁護の余地があるのだろう。

あるいは普段はおとなしい子どもが突然興奮して暴走したのかもしれないが、それでも暴力を振るって止めるというのは、最もやってはいけない稚拙な手段である。

たとえば、ひとまず演奏を止めて、沈静化を促すとか、そのうえで本人を諭すなどの方法は取れなかったのだろうか。そもそもが教育を目的とした演奏会なのであるから、そのほうが、よほど教育的である。

さらに、あえて言えば、たかが演奏である。たくさんの人が長いこと練習をして、支えてきた成果の演奏であることはわかる。しかし、教育を目的とした演奏会で、子どもの人権や尊厳よりも、演奏を続けることが優先さるべきだったのだろうか。

これくらいの荒っぽい指導は、昔は許されたという意見もおかしい。それなら、「英雄色を好む」というように、昔なら不倫などは政治家が辞職する理由にはならなかっただろう。しかし、不倫に関しては、「今」の基準で容赦なく叩かれている。

もっと昔に遡れば、今よりはるかに社会は暴力的で、果し合いや仇討が許された時代もあった。体罰へのノスタルジアを表明する人々は、何もそんな時代に戻りたいわけではあるまい。

人類の歴史は、言うなれば暴力の歴史でもあり、近代以降はその根絶に向けて世界が叡知を絞り、努力を重ねてきた。