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社会保障・雇用・労働 日本

江戸時代、庶民の労働はこんなにブラックだった

「給料ナシで外出禁止」

はるか古代から人間は働いてきた。そうしなければ、生きていけないからだ。ただ、働き過ぎはよくない。ましては過剰に働かされて、自ら死を選ぶ人があとを断たないのはまことに痛ましいことである。

いったい、日本人はいつからこんなに働くようになったのだろうか。そんなわけで今回は、江戸時代の労働事情を紹介していきたい。

みんなバイトをしていた

江戸時代、ほとんどの人は農民として農業を営んでいた。農業は天候に左右されるから、凶作になるとそれこそ死活問題になり、時には飢え死にすることもあった。

ただ、そのようなことは生涯に一度あるかないかで、まじめに働いているかぎり本百姓(土地を持つ農民)は十分暮らしていくことができた。

しかし江戸中期以降、商品作物の栽培や手工業品の生産などが盛んになると、農民が金銭を持つようになる。

すると娯楽や博徒が農村に入り込み、遊びや博打で身を持ち崩したり、農業経営に失敗したりして土地を手放す人が増え、農村は一部の勝ち組(豪農・地主)と大多数の負け組(小前貧農層・半プロレタリア層)に分かれてしまう。いわゆる二極化だ。

このため幕末には、貧農が質地取り戻しや借金の帳消しを豪農に求め、均等な社会を求める世直し一揆が続発し、これが明治維新の原動力の一つになっていった。

 

落ちぶれた農民の行き先の一つは、江戸や大坂のような大都会であった。人口が多い都会にいけば、魚・青物などを、てんびん棒でかついで売り歩く棒手振(ぼてふり)などの行商や、奉公人(アルバイト)などになって、どうにか生活ができるからである。

とくに江戸は武士が多いから、口入屋(人材派遣業者)を通じて武家屋敷に奉公する人びとも多かった。参勤交代のときだけ、大名行列の要員として雇われる者もいた。一説には、大名行列の過半は、そんなアルバイトで占められていたという。

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江戸の大名屋敷には多数の武士が生活していたが、仕える武士には大きく分けて二種類ある。一つは江戸に常駐し、藩の執務や仕事を担い、妻子と暮らしている、定府である。中には生涯に一度も国元(大名が支配している地方領地)に足を踏み入れず、江戸にある菩提寺に葬られる者もいたという。

対して勤番は、参勤交代などのさいに国元から単身赴任でやって来る者たちだ。短期間だけお役を務める者たちが大半だったが、明確な勤務年限が決まっているわけではない。

勤番は、特定の藩士が担うものではなく、必要に応じて国元で選定された。だから四十代半ばで初めて江戸にのぼる藩士もいた。

勤番武士は大名屋敷の長屋に数人が男所帯で暮らすことが多く、「久留米藩士長屋絵巻」を見ると、長屋に茶室をつくってしまう者や書画を飾り坪庭で盆栽や花を育てるなど、それぞれが快適な暮らしができるよう工夫している。囲碁や将棋、酒盛が彼らの邸内での楽しみだった。

屋敷外の娯楽に関しては、金もなく門限も厳しいので、高額な歌舞伎は年に数回にとどめ、花見や寺社参詣、花火見物、大名行列の見学、見世物や大道芸の見物など、金のかからぬ娯楽を楽しんだ。

健康な男子が単身赴任となると、気になるのが性欲の処理だが、値の張る吉原は見学だけにとどめ、葦簀(よしず=すだれのこと)がけの小屋にいる私娼で我慢したようだ。

このため性病にかかる者も多かったという。(高牧實著『文人・勤番藩士の生活と心情』岩田書院、酒井博・酒井容子著『勤番武士の心と暮らし 参勤交代での江戸詰中日記から』文芸社より)