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「空襲から逃げたら食糧停止」エリート官僚が発した恐るべき命令

防空法が招いた悲劇
大前 治 プロフィール

戻ってきた市民を襲った空襲

まさにその7月28日の夜、米軍機62機が青森市を襲った。午後10時37分から11時48分まで、劇薬である黄燐を使用した新型焼夷弾が投下され、街は火の海となった。市街地の90%を焼失し、死者は1,018人、被害家屋は1万8千戸以上に及んだ。

空襲後の青森市(青森駅南側から青森港を望む)青森空襲を記録する会 提供

当時小学六年生だった富岡せつさんは、両親を青森市内に残して、叔母と0歳・1歳の従妹と一緒に青森県木造町(現つがる市、青森市から約30km)の親戚宅へ住ませてもらっていた。

ところが、自宅へ戻らないと配給停止になると聞いて慌てて4人で汽車で帰り、その夜に空襲に遭った。火の粉と熱風が吹き荒れる中、自分は生きのびたが幼い従妹は叔母とともに防空壕で亡くなっていた。子どものおむつが焼け残っていて身元が分かったという。

筆者がお会いした際に、富岡さんは「二度とこんな悲惨な体験はしたくありません」と話された。

戦争は、最も弱い人に最大の苦しみを与える。市民は、アメリカ軍による国際法違反の無差別攻撃(=空襲)と、日本政府による避難禁止(=防空法)により二重の犠牲を負わされた。

このことを、戦争体制を推し進めた側はどうみているのだろうか。

 

防空法での処罰を布告した金井氏の前職は特高官僚、戦後は兵庫県知事を経て参議院議員となった。議員時代の1972年の回顧談では「市街が空っぽになっては困るので、消火活動をする人は残ってくれと触れたんです」と平然と話す。

空襲の翌日はラジオ放送で「青森市は空襲に遭ったけれど、私も元気だし、県のいろいろな活動も始める」と呼びかけ、まず第一に道路拡幅など都市計画に取り組んだと誇らしげに語っている(青森市「青森空襲の記録」1972年7月)。

内務省のエリートとして青森県知事を拝命した金井氏は、犠牲になった県民一人ひとりの命の重みを感じていたのだろうか。