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北朝鮮問題の真っ只中で、なぜトランプはアフガン増派を決めたのか

アジアは今、泥沼

トランプ米大統領が8月21日、アフガニスタンへの増兵を決めた。現在アフガニスタンには8000人の米兵が駐留しているが、おそらくその半数にあたる4000人程度を増派する予定らしい。元はと言えばトランプ大統領は、海外でのアメリカ軍事プレゼンスを縮小しようとしていたはずなので、今回の決定は方向転換ということになる。

フォート・マイヤー陸軍基地で対アフガニスタンの新戦略を発表したトランプ大統領〔PHOTO〕gettyimages

アフガニスタンは、バニューダトライアングル(魔の三角地域)の内陸版のような不吉な場所だ。フロリダ沖のバミューダトライアングルでは、通過中の船や飛行機が忽然と消えてしまうらしいが、アフガニスタンでは、足を踏み込んだ列強が、みな悲惨な運命をたどる。剣呑な山中の貧しい国なので、日本から見ればかなり存在感は小さいが、この国の覇権を巡って、19世紀初めより並み居る強国が熾烈な争いを展開してきた。

 

アフガン戦線、混沌の歴史

第1次アフガン戦争は1838年に遡る。折しも、中央アジアをめぐってロシア帝国とイギリス帝国が覇権争い(the Great Game)の最中で、ロシアがインドにまで触手を伸ばすことを警戒したイギリス帝国が、先手を打って始めた戦争だ。イギリスはアフガニスタンをロシアの南下を防ぐ緩衝地帯にしようと思ったのである。

最初は攻勢だったイギリス軍(正確にはイギリス東インド会社軍)はアフガニスタンに傀儡政権を樹立したが、アフガン人の抵抗は激しかった。結局、どうしようもなくなり撤退を決めるが、雪と寒さに阻まれながら険しい山中を引き揚げる最中、ゲリラの執拗な攻撃を受け、兵士とシェルパ1万6000人が全滅した。

それから40年後の1878年、懲りないイギリスは再びアフガニスタンに宣戦布告する。このときもロシアとの覇権争いだったが、またもやゲリラ攻撃にやられ、ほうほうの体で退散。アフガニスタンを第2のインドにしようとした夢は、ついに叶わぬままに終わった。

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次の紛争は1919年。イギリスが第1次世界大戦で疲弊したところを狙って、今度はアフガニスタンが英領インドに攻め込んだ。これが第3次アフガニスタン戦争だが、戦線は20日も経たないうちに膠着。結局、イギリスが得た物はなかった。

イギリスの次に魔のトライアングルに落ちたのはソ連だ。1978年、アフガニスタンは社会主義政権となっていたが、それに対してムジャヒディーンという武装イスラム勢力が蜂起し、国内は混乱に陥った。ムジャヒディーンというのは、タリバンの前身のようなイスラムの過激グループだ。そこで翌1979年、アフガニスタンのイスラム化を恐れたソ連が軍事介入。これにより、当然のことながらムジャヒディーンの敵はソ連となった。

ちなみに、このソ連の軍事介入に抗議して、翌80年のモスクワオリンピックでは、アメリカ主導の下、西側諸国のボイコットが相次いだ(日本の選手団も参加を断念)。そのアメリカは当時、こっそりムジャヒディーンに活動資金を提供していたという。ムジャヒディーンはその後、進化してアルカイダとなるので、アメリカはソ連憎しのあまり、将来の宿敵を支援していたことになる。アルカイダはアメリカが作ったと言われる所以だ。

ソ連とムジャヒディーンの戦いは、やはり泥沼化。半年で撤退するつもりだったソ連は、17万5千人という膨大な人員をつぎ込んだ挙句、ようやく抜け出せたのが10年後の1989年だ。しかも、イギリスと同じく大火傷を負ったばかりでなく、その翌年、ソ連自体が崩壊してしまった。莫大な戦費が国家財政を圧迫し、崩壊を早めたとも言われている。ソ連の戦死者1万5千人、負傷者7万5千人。アフガン側の死者は、ソ連の100倍だそうだが、どの数字にも確証はない。

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そして2001年、ニューヨークの9.11テロの後、今度はアメリカがアフガニスタンへの攻撃を開始した。それとともに、NATOの統括でアフガン支援作戦が始まり、NATO加盟国を含めて46ヵ国もの国々が同地で戦ったり、支援活動をしたりしてきた。今年ですでに16年だ(当初の作戦は2014年をもって終了したが、2015年以降も名前が変わっただけで作戦は継続している)。

その間にタリバン政権は潰れ、アルカイダのビン=ラーディンもいなくなったはずだが、イスラム過激勢力は未だに精強で、「ジハード」(聖戦)を唱えた無差別テロが日常茶飯事となっている。