格闘技

「最強のボクサー」を続々生み出したヨネクラ式育成術

【ルポ】さよならヨネクラジム!第二回

ボクシングの名門・ヨネクラジムが今年8月で、54年の歴史に幕を下ろすこととなった。東京新聞運動部の森合正範記者が、その閉鎖までを追うルポ。第二回目は、大橋秀行、川島郭志らを擁した、90年代の「第二次黄金期」の裏側に迫る。なぜあの時、ヨネクラジムが「最強」であったのか、その秘密とは――。

(第一回『さよならヨネクラジム!「日本の名門」が閉鎖を決めるまで』はこちら→http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52597

 

エリートVSたたき上げ

1980年代後半から90年代後半まで、ヨネクラジムは「第二次黄金期」を築いていた。10年の間で、世界王者に大橋秀行が2度輝き、川島郭志は6度防衛。松本好二が東洋太平洋王者となり、日本王者には個性あふれる中島俊一、古城賢一郎ら。あのころ、その20年後にジム閉鎖を迎えるなんて想像できただろうか。

ジムの壁にはチャンピオンたちの写真パネルが並んでいる

アマチュアで実績があるエリート選手だけでなく、たたき上げの選手が目立つのもヨネクラの特徴だった。それはジム内での「戦い」があったからに他ならない。
  
88年当時、ジム内にはエリート対たたき上げの構図があった。他のジムにはない独特の雰囲気。もしかしたら互いの対抗心を煽るため、会長の米倉健司が意図的にそうさせていたのかもしれない。

アマチュアエリートは世田谷区中町にある米倉の自宅からわずか100メートルの合宿所に住み、「世田谷組」と呼ばれた。朝のロードワークから会長が付きっきり。朝食は会長夫人の手作りが待っていて、特別扱いされた。大橋を大将に川島、松本ら高校時代からアマで全国トップの蒼々たるメンバーが揃う。

一方、それ以外のメンバーは反骨心むきだしで「世田谷組」に向かっていく。目白のジム2階にある合宿所には、元日本王者の小林裕幸、のちに相模原ヨネクラジムの会長となる幡野光夫らたたき上げの選手が、トレーナーの松本清司とともに住んでいた。大学からボクシングを始めた非エリートの中島もそうだった。エリートを目に掛けるのが米倉なら、雑草を率いるのは松本。二つの軍団に分かれていた。

現在は多くのジムで、練習生同士の仲がいい。和気藹々としたムードが漂う。当時のヨネクラからすれば「仲良しなんてくそ食らえ」となるだろう。

熱くなるのはスパーリング。まるで対抗戦かのように、大橋と中島が多い時には週に2回、3回と「大将戦」で拳を交える。大橋が左ボディーを放てば、エリート軍団は沸きかえり、中島が変則的な右で応戦すれば、雑草軍団は「そうだ、行け!」と歓声をあげる。リング上の2人とともに、周りを囲むメンバーも必死だ。声をからして「大将」へ声援を送る。これがヨネクラジムでの日常風景だった。

当時、まだ入門したばかりで、現在トレーナーを務める元日本王者の嶋田雄大は「あのころのスパーリングは戦争みたいだったな」と述懐する。ジム内のライバル意識は想像を超えていた。

大橋は当時を思い出し「もうそりゃあ、バチバチよ。全盛期、全盛期」とあまりの激しさに笑ってしまうほどだった。

「中島さんとはガチガチのスパー。向こうの応援がすごくて盛り上がってね。中島さんは4つ上の大先輩で、あちらの大将。階級が近い者同士で松本好二と古城(賢一郎)がやったりね。僕らにとってはね、試合よりスパーの方が大事でしたよ」

ファン垂涎のカードがジム内で実現する。本気で競い、殴り合う。意地と意地がぶつかり合う。威信をかけた闘いだ。だから互いに強くなっていった。大橋は続ける。

「入門したころはね、アマ王者はオレ一人だけ。周りは一切、口をきいてくれない感じですから。孤立感がありましたよ」