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「空襲から絶対逃げるな」トンデモ防空法が絶望的惨状をもたらした

~国は「原爆が落ちても大丈夫」と喧伝
大前 治 プロフィール

疎開も禁止

地方へ移住する「疎開」も厳しく制限された。

1944年3月3日の閣議決定「一般疎開促進要綱」は、防空目的で自宅を強制撤去(建物疎開)された者や高齢者・幼児・病人などを疎開の対象者と認め、それ以外は後回しにした。閣議決定や通達により学童以外の疎開は制限され続けた。

新聞にも、「君は疎開該当者か 帝都の護りを忘れた転出に釘」、「疎開足止め」、「一般疎開は当分中止」という記事が掲載され、国民は空襲の危険が迫る都市に縛られた。

左から朝日新聞1945年5月5日付、毎日新聞戦時版1944年12月13日付、読売報知1944年12月12日付
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死んでもバケツを離しませんでした

1942年6月のミッドウェー海戦で敗退した日本軍は、ずるずると戦争の泥沼に突入する。政府発表は相変わらず「勝った、勝った」と繰り返すが、食糧難と物資窮乏にあえぐ市民には悲壮感が漂う。政府の防空指導も決死の様相を帯びてきた。

1943年8月に内務省が頒布した小冊子「時局防空必携」は、冒頭に「私たちは御国を守る戦士です。命を投げ出して持場を守ります」、「私達は命令に服従し、勝手な行動を慎みます」という防空必勝の誓いを掲載。全国の町内会(隣組)へ大量配布された。

内務省発行の小冊子「時局防空必携」昭和18年改訂版

新聞記事の様相も変わった。空襲が頻発し、「焼夷弾手掴み 初期防火の神髄」という真偽不明の武勇伝や、「手袋の威力 焼夷弾も熱くない」という防空総本部指導課長のトンデモ談話が紹介されるようになった。実際に起きた惨状を知りながらの国策宣伝であり罪深い。

読売報知1944年7月9日付(左)、朝日新聞1944年12月1日付(右)
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1945年3月10日の東京大空襲で10万人が亡くなっても政府方針は不変だった。3月15日の新聞は「夜間暴爆 あすへの戦訓 / 初期消火と水」(読売報知)、「初期消火と延焼防止 最後まで頑張れ」(朝日新聞)と重々しい。

さらに「死の手に離さぬバケツ 火よりも強し社長一家敢闘の跡」(読売報知1945年3月14日付)と防火活動による死を美化し、「消火を忘れた不埒(ふらち)者」(読売報知 同年4月16日付)、「防火を怠れば処分」(読売報知 同年4月28日)という恫喝めいた記事が続いた。

1945年の記事。読売報知3月15日付(左上)、朝日新聞3月15日付(右上)、読売報知 4月28日付(左下)、同4月16日付(中下)、同3月14日付(右下)
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1945年8月6日・9日に原子爆弾が投下されても、防空法による避難禁止と消火義務は維持された。

防空総本部が発表した原子爆弾への対策は、「軍服程度の衣類を着用していれば火傷の心配はない」、「新型爆弾もさほど怖れることはない」、さらに「破壊された建物から火を発することがあるから初期防火に注意する」という。建物が破壊される惨状でも消火活動をさせるのだ。

 

原爆が落ちても「防空体制変更いらぬ」、「熱線には初期防火」と各紙が報じた後、国民は8月15日に終戦を迎えた。

朝日新聞1945年8月14日付(左)、読売報知1945年8月10日付(左)
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