防衛・安全保障 国家・民族

昭和天皇は、本当はどの時点で「終戦」を意識していたのか

「独白録」「実録」から聖断を再考する

今から72年前、1945年8月15日。昭和天皇の「玉音放送」によって、国民は戦争が終わったことを知った。すでに310万もの日本人が戦火に倒れていた。もしも戦争が続き米軍を中心とする連合国軍の本土上陸が実現していたら、被害はさらに広がっただろう。

ソ連が北海道に上陸して南下していたら、日本はドイツや朝鮮のように、民族同胞が分裂する状態となっていただろう。昭和20年夏の敗戦は、こうした最悪の悲劇を逃れる決定であった。

その決定が、昭和天皇による「聖断」によって実現したことはよく知られている。一方、より長い時間軸で敗戦までの過程をながめると、この「聖断」の意味が立体的に見えてくる。今回は『昭和天皇実録』などから、「聖断」の意味を考えてみたい。

ポツダム宣言「黙殺」が生んだ悲劇

まず連合国軍による降伏勧告、「ポツダム宣言」(以下「宣言」)から8月15日までの大まかな流れをみておこう。

同宣言は1945年7月26日に発せられた。「日本国国民を欺瞞し、世界征服の挙に出させた権力及び勢力の永久除去」「戦争犯罪人の処罰と、民主主義的傾向の復活強化の障碍の除去」などからなる。

日本はこれを黙殺した。中立条約を結んでいたソ連の仲介による停戦を模索していたからだ。この時点では、ソ連が「宣言」に参加していなかったこともあって、大日本帝国の為政者たちがソ連に期待を寄せたのだ。

ところがソ連は宣言に先立つ「ヤルタ会談」によって、ドイツ降伏後の対日参戦を決めていた。仲介役を買って出てもらうため、満州国の中立化と終戦後の撤兵、その他ソ連が希望する諸条件の論議などの条件を提示した。こうした交渉は、泥棒に自宅のカギを渡すようなものだった。

期待すべきでない相手に運命をまかせたことによって、国民の被害は激増した。

たとえば同年8月6日の広島原爆投下、9日の長崎原爆投下だ。さらに同日、ソ連軍が満州国との国境を越えて侵攻してきた。その結果、満州における日本人移民たちは絶望的な逃避行を強いられ、多くが死んだ。生き残った人たちも、逃避行の途中で子どもを手放さざるを得なかった。「中国残留孤児」はこのソ連参戦による。60万人がソ連領内に拘束され、6万人が死んだシベリア抑留もあった。

「宣言」をたたき台に交渉を始めていれば、いずれも回避できた悲劇である。