防衛・安全保障

ゼロ戦のパイロットたちはなぜ「エース」と呼ばれることを嫌ったのか

大空で戦った男たちの証言

今年は節目の年

今年の6月、千葉で行われたレッドブル・エアレースで、日本人所有の零戦が、日本人の操縦で、戦後初めて日本の空を飛んだ。アメリカ製のエンジンが搭載された復元機とはいえ、戦後72年の平和な空を、東京スカイツリーをバックに飛ぶ零戦の姿は、なかなか印象的なものだった。

零戦の前身である十二試艦上戦闘機の計画要求書案が、海軍から三菱重工業、中島飛行機両社に提示されたのは、いまからちょうど80年前の昭和12(1937)年のこと。同年、中華民国との間で支那事変(日中戦争)がはじまり、さらに戦訓による要望が追加されて、速力、航続力、運動性能、武装などあらゆる点で、当時の技術水準を超える過酷な計画要求になった。

あまりに厳しい計画要求に中島は試作を辞退、三菱一社が、当時34歳の堀越二郎技師を設計主務者として開発にあたることになった。三菱の設計チームは数々の独創的な工夫をもって海軍の期待を超える高性能な戦闘機を作り出し、この戦闘機はいまから77年前の昭和15(1940)年7月24日、海軍に制式採用され、神武紀元2600年の末尾の0をとって「零式艦上戦闘機」(略称・零戦)と名づけられた。今年は、零戦がいわば「喜寿」を迎えた節目の年にあたる。

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『証言 零戦 大空で戦った最後のサムライたち』は、前著『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』に続き、私が戦後50年の平成7(1995)年から22年にわたり、生存する元零戦搭乗員のインタビュー取材を続けた成果をまとめたものである。

日本海軍には「サイレントネイビー」という言葉があって、大言壮語したり、自分のことを語るのをよしとしない気風があった。多くの戦友を失い、自分が生き残ったという自責の念もあり、また、戦前の日本軍を全て「悪」と断じるかのような戦後の風潮もあいまって、ほとんどの人が戦後、自らの戦争体験については口をつぐんだままだった。

当事者が黙っているから、いきおい、市販される戦記関連本は脚色の入った、一般受けしそうなキャッチの入ったものが多くなる。零戦について言えば、昭和28(1953)年、テレビ本放送の開始とともに湧き起った力道山のプロレスブームとときを同じくして「坂井三郎空戦記録」(日本出版協同。執筆者は福林正之)が出版され、力道山が空手チョップで「ガイジン」レスラーを次々となぎ倒すかのごとく、米英機をバタバタと撃ち墜とす零戦の姿に人々は熱狂した。

 

それは、敗戦後、日本人が抱いてきた外国人コンプレックスを、ささやかにではあるが払拭するものだった。昭和30年代から40年代にかけ、零戦は一大ブームになり、「エース」や「撃墜王」を冠した関連本が星の数ほど出版され、少年漫画の主役にもなった。

しかし、前著『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』に登場した志賀淑雄・元少佐が私に念を押したように、

「日本海軍戦闘機隊にはエースはいない。そんな称号も制度もなかった。商売で『エース列伝』などという本を出されるのは迷惑千万」

というのが、「サイレント・ネイビー」をつらぬくほとんどの元零戦搭乗員に共通する思いだった。本のなかで「エース」呼ばわりをされて偶像に祭り上げられ、その気になってしまったごく一握りの人たちは、かつての仲間から軽蔑されたものだ。

私が取材を始めた戦後50年の節目というのは、そんな元零戦搭乗員が軒並み日本人男性の平均寿命を超え、自らの人生を振り返るとともに、なんらかの形で体験を伝え残したいという気持ちが芽生えた頃でもあった。事実、インタビューに同席した奥さんや子供が、

「お父さんの戦争体験をはじめて聞いた」

と言うこともしばしばで、偶然のタイミングながら、私の取材ではじめて重い口を開いた人が多かったのだ。これまで、零戦については多くの出版物が世に出ていて、いまさら私ができることは多くないのでは、と思っていたが、その心配はどうやら杞憂のようだった。というより、従来目にしていた情報のほとんどは、当事者の心情などそっちのけで作られたものだったということに、私は少なからず衝撃を受けた。

取材を始めて以来、これまでに会った零戦搭乗員は約300名にのぼる。その他、海軍関係者や戦没者遺族をあわせるとゆうに500名を超える人から、貴重な談話と一次資料の提供を受けた。

だが、時の流れは無情で、平成7(1995)年、全国に1100名いた元零戦搭乗員もいまや150名を切るばかりとなり、私の取材に応じてくれた人も、その多くが鬼籍に入って、これから新たにすることは事実上不可能なのだ。

となれば、彼らの生きた証を形にして残すのは、縁あってインタビューを重ねた私の責任である。