国際・外交

「アメリカが最も恐れた沖縄の男」瀬長亀次郎の一生涯

すべては持たざる人のために
佐古 忠彦 プロフィール

「持たざる人たち」のために

瀬長亀次郎は、1907年6月10日、豊見城村我那覇に生まれた。貧しい農家の生まれで、亀次郎が3歳のときに父がハワイに出稼ぎ移民としてハワイに渡ったほどだ。

亀次郎は学校から帰ると、家の前にあった木に登り、ひたすら読書をしていた。飼育している山羊が食べる草刈りが、祖父に言いつけられた日課だったが、遊びに夢中で時折忘れてしまう。頑固な祖父は、罰として亀次郎の食事を減らしたが、母はこっそり芋を食べさせてくれた。

「ムシルヌ アヤヌ トゥーイ アッチュンドー」

むしろのあやのようにまっすぐ生きるんだよ――母のこの言葉は、亀次郎の生き方に大きな影響を与えることになる。

医師を志して上京した亀次郎は、私立順天中学に編入、同郷の東大生・喜屋武保昌と二人の自炊生活するなかで、その思想に影響を受け、目を見開かされるのを感じた。現状への疑問がどんどん膨らんでいった。

なぜ世の中には貧乏人が多いのか、なぜ労働者の暮らしは働いても働いても良くならないのか、なぜ戦争は起こるのか、なぜ資本家だけは肥え太っていくのか……。故郷・沖縄の姿が常に脳裏にあった。

 

卒業後、旧制七高(現在の鹿児島大学)に進学。医師志望に変わりはなかったが、当時非合法の社会科学を研究するサークルに所属して社会問題に対する思索を深め、社会運動に傾倒していった。

医師として働くよりも、疑問を追求することこそが、「むしろのあや」なのだ――。科学的社会主義、つまりマルクス主義の文献を読み漁る中で、自分なりの「理論」が固まっていった。

1928年、七高2年の冬、亀次郎は初めての逮捕を経験する。その年の3月、共産党員が一斉検挙された三・一五事件で、党員を匿ったとして、「犯人隠匿」の罪の容疑がかけられたのである。20日間拘留の末に幸い起訴猶予となったものの、せっかく苦労して入学した七高から放校処分を受け、勉学の道は閉ざされた。

以後、亀次郎は「持たざる人たち」のために生涯を捧げることになる。

熱海-三島間の丹那トンネルの労働争議を指導し、治安維持法違反で逮捕されて以降は、終始特高警察から監視・尾行される立場となった。亀次郎が大きな飛躍を遂げるのは、終戦後、沖縄人民党を創立、その主要メンバーとなって以降である。

(次週へ続く)