社会保障・雇用・労働

「強制退去」を命じられる、中国残留孤児2世らの悲鳴

母の死を嘆き、自分の血を売り

近年、中国残留孤児1世が亡くなった後、残された2世家族が都営住宅から退去を迫られるケースが相次いでいる――。

戦前・戦中、国策に従って旧満州(中国東北部)に移住するも、戦後、親や親族と離ればなれとなり、中国に取り残されてしまった残留孤児。1981年3月より始まった集団訪日調査によって、彼ら・彼女らの一部が祖国日本に帰ってくるも、日本語が不自由なためにまともな職を得られず、衣・食・住に難儀する人も多かった。

そんななか、国と自治体は連携して、公営住宅を優先的に提供するなどして、残留孤児の居住の安定を図ってきた。

ところがここ数年、永住帰国した残留孤児1世が亡くなると、残された2世家族が退去を迫られるケースが相次いでいる。一体、何が起こっているのか。『中国残留孤児 70年の孤独』の著者・平井美帆氏の特別レポート。

きっかけは母の死だった

「都営住宅からの退去に関する説明書」「明渡通知書」「催促状」――。

母と娘は無機質な文書を手に、困惑した表情を浮かべていた。東京都西部の都営住宅に、中国人の夫と暮らす張さん(57)、少し前までここで同居していた娘の玲さん(31)である。約2年半前から張さん夫妻のもとには、住居の立退きを求める通知が届き、月に何度も行政担当者が訪れるようになった。

張さん(右)と玲さん(©Miho Hirai)

きっかけは張さんの母の死だった。2014年12月、団地前の横断歩道を渡っていた張さんの母・キクさんは、横から走ってきたバイクに轢かれ、そのまま一度も目を覚ますことなく、クリスマスの日に81歳の生涯を閉じた。

キクさんは「中国残留孤児」という運命を背負った女性だった。戦前の国策に従い、満州開拓移民として、青森から旧満州(中国東北部)に一家で移住した。だが、父親は日本の敗戦直前に現地で徴兵されてしまい、ソ連軍が北東から侵攻してきた混乱の大地で母親とも離ればなれになる。

当時まだ幼かったキクさんは、中国人養父母に育てられた。長い長い月日を経て、彼女の身元が判明したのは、2004年11月の訪日対面調査でのことだ。キクさんには中国人の夫がいたが、このときすでに他界していて、5人の子どもはそれぞれ家庭を築いていた。

 

次第に祖国に永住したい気持ちが募ったキクさんは2010年、娘の張さん一家とともに日本にやってきた。永住帰国した中国残留孤児は、最初の半年間、中国帰国者定着促進センター(2016年3月閉所)で暮らした後、本人の希望と各都道府県の受け入れ状況を調整して、居住地が決められる。そして、居住地の自治体から公営住宅の一室をあてがわれるのが一般的だ。

キクさんと張さん一家は東京で暮らすことを希望し、都営住宅に入居したが、名義人は残留孤児のキクさんだった。東京都が全額出資し、都営住宅を管理するJKK東京(東京都住宅供給公社)は、原則として、名義人が亡くなった後、同居していた子ども世帯に使用の承継を認めていない。そのため、最愛の母が事故死したショックから立ち直る間もなく、一家は立ち退きを迫られた。

張さんは一連の経緯について納得のいかない顔で話しだした。母親の中国語を、一人娘の玲さんが少しぎこちない日本語に訳していく。

「日本に来て、家族4人で住むところをもらった。母親の面倒をみるのに、ここをもらえた」
「もらった?」
「ああ、貸してもらった」

思わず訊きかえすと、玲さんはすぐに言いなおした。言葉の綾や文化の違いもあるが、張さんたちは、募集倍率が非常に高いことなど、都営住宅をとりまく厳しい状況をあまり知らないようだった。

キクさんの写真を見たいと言うと、張さんはぱっと明るい表情に戻って、思い出のアルバムを見せてくれた。まだ日本に永住すると決める前、一時帰国したときのものだ。着物を着て微笑むキクさんと張さん――。本当の両親はすでに亡くなっていて、いつか会う夢はついに叶わなかったけれど、キクさんは事故直前まで週に二回は必ず、日本語教室に通っていたという。

半分日本人の血が流れる娘の張さんにとっても、日本は第二のふるさとだ。そしてここは母の思い出がつまった場所だった。母の面影がいまも目に浮かぶ部屋、廊下、玄関――。張さんの話や口ぶりには、日本で唯一の居場所となった「実家」を失いたくない…そんな気持ちもにじみ出ていた。