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『乱歩と正史』人はなぜ死の夢を見るのか

本を書く前のことを思い出す

乱歩と青年と私

3年前、若いディレクターがやって来て、インタビューの依頼を受けた。落ち着いた青年で、江戸川乱歩のなかに、生誕120年といった数字だけではない、何かを見ていた。一言でいえば、それは〈時代〉だったろうか。

彼は20代半ば、私は乱歩の逝く頃に近いから、乱歩、私、青年と、ほぼ半世紀ずつ離れた世代が〈乱歩〉とは何だろう、という問いで接近する。不思議だなと思うが、いま言うとしたら、乱歩は「百面相役者」だろうか。本物が百のうちの一つだとしても、あるいは百の仮面の後ろにいるとしても、さびしい気がする。でも横溝正史といるときの笑顔がいい。

乱歩はもういないが、若い頃は遊蕩も、怠業も、放浪もした。俺って何だろう、と思ったに違いない。が、私と青年とでは、古生物と人類ほどの差があるから、自分って何だろう、〈乱歩〉って何だろう、〈時代〉って何だろう、という問いも、かなり違った方向に開けているのだろう。またその問いは、青年には有意義としても、私にはもう用済みのような問いなのかもしれない。

 

しかし、乱歩、私、青年と並べると、なんとなく『老人と海』のディマジオ・老人・少年の物語を思い出す。老人は少年に「もう立派な大人だ」と言い残し、また英雄ディマジオを間近に想像しながら、ボートを漕ぎ出す。

彼は巨大なマカジキと格闘する。だからもし、どこかに少年がいるのなら、私が『乱歩と正史』(講談社選書メチエ)という本を書いたのも、ほんの僅か似たところがある。

横溝の問いとは?

2年前、青年は再び仕事でやって来た。そのとき私は「本を書く」と伝えたと思う。で、実際に書いてみると『乱歩と正史』。私の場合、立ち向かう大きな影は二つかと思ったが、凝視すると、じつは一つだ。それは近代探偵小説という巨きな魚影だった。

小説の老人はマカジキと闘ってついに獲物としたが、海から帰る途中、鮫たちに襲われ、ボートに括り付けたマカジキの肉は食い尽くされてしまう。海の摂理と言うべきか、老人のボートは大いなる獲物の頭部と白骨と尻尾だけを曳いて、小さな港へ戻ってきた。

で、私はどうか? 準備期間は長かったが、春の初めに船を出し、夏に帰ってきた。そして疲れたと、そんなことくらいしか話はない。年がゆくにつれ、体力は落ちるが、扱う記憶の総量は増えていく。これは仕方のないことだが、老人にも智恵はある。それは経験によって思考することだ。

有りそうにない事と、有りうる事を分別することだ。しかも智恵は躓くから面白い。智恵に合致しない事実に出逢うことが、智恵を鍛え、少しずつ尊いものにする。が、じつは困難もあり、重要なのは帰って来たことだろう。

仕事の準備に掛かっていたころ、壮年のディレクターがアシスタントと一緒にやって来た。今度は横溝正史の番組ということで質問を受けた。前に書いたエッセーが話題となったが、横溝の小説だと、密室殺人、童謡殺人と、つい物騒な話が多くなる。種々説明したあと、探偵小説の言説が社会のなかで何重にも寓喩的な波紋を描いていくことについて考えた。

横溝の問いは何か? それは〈家〉である。〈家〉とは何か、それが彼の代表作の主題である。だが、乱歩の思考には〈家〉がない。あるとしても家は〈個人〉に因数分解される。アダム・スミスを学んだ乱歩の探偵小説は、ある種の経済学批判となり、〈個人〉が効用の合理性の限界域を孤独に彷徨う姿を描いている。