Photo by iStock
不正・事件・犯罪

定年を終えた、ある「伝説の知能犯刑事」のその後

「天下った」と陰口を叩かれたくなかった

つかみどころのない男

西日の差すベランダに二つの睡蓮鉢を置いて、メダカを飼っている。大ぶりの素焼きの鉢に10匹ほどの緋メダカ。「楊貴妃」という優美な名を持っているそうだ。もう一つの黒の睡蓮鉢には白メダカが伸びすぎた水草の下に潜んでいる。ずんぐりした体形なので、こちらは「ダルマ」と呼ばれている。

いずれも2年ほど前に、警視庁の元捜査二課刑事からもらった。彼は一つ年上で、私のメダカの師匠である。郊外のしもたやに、メダカの王国を構えている。その庭先や裏庭に、大小の睡蓮鉢、泡盛古酒の大甕、素焼きの壺、トロ箱、首を切り落としたペットボトル等々、水を貯えるあらゆるものを並べ、そこにメダカを泳がせている。春になって卵を産むと、銀河のようにメダカの世界は果てしなく広がっていく。

私は気まぐれでメダカを飼っていたのだが、ザリガニを入れたためか、それとも野鳥が悪さをしたのか、いつの間にか消えてしまっていた。それを何気なく元刑事に話したところ、「俺に任せとけ」という返事が返って来た。

ある日、彼は待ち合わせのホテルに、2リットルのペットボトルを下げて現れ、「ほーら、どうだよ」と突き出した。ペットボトルの中で20匹の楊貴妃とダルマが泳いでいる。

「帰る時にはな、ふたを時々開けてやったほうがいいんじゃないか」

 

彼がそう言うので、帰りの地下鉄の床にペットボトルを置き、時々ふたを開けて空気を入れた。乗客が私の周りからすっと引いていくのがわかった。ガソリンでもぶちまけると思ったのだろうか。

彼は伝説的な知能犯刑事であった。2、300人の情報源を持っていると言われ、1994年に三菱重工業がからむ橋梁談合恐喝事件の情報を取ってきたり、2001年に首相官邸や外務官僚を震え上がらせた外務省機密費詐取事件に火を付けたりして、古い二課担当記者に噂が残されていた。

私は新聞記者時代に彼と話したことはなかったが、警視庁の廊下で彼の剣吞な目つきに出会ったことがある。酔漢のようにつかみどころのない人間に見えた。

汚職を追う捜査二課の刑事は口が悪く、いつも不機嫌そうな顔つきをしている。「てめえ、この野郎、ばか野郎」と呼吸をするように悪口を叩くのだ。社会部のデスクになってから、彼を紹介しようという人がいたが、私は近寄らなかった。

その消息を再び聞いたのは、彼が「親方」と慕う、かつての上司の事務所だったように思う。あいつも65歳になっていよいよ警視庁から離れるそうだ、という話をした後、「親方」はこう言った。

「あいつはその道の超有名人で、どんなところにも再就職ができるんだがな。まあ、清濁併せ吞むことを知らねえ奴だから」

なぜ人脈を使わない?

再就職を巡って、またも周囲をやきもきさせているというのである。彼は60歳の警視庁定年を迎えた時に、民間企業への再就職を拒んで警視庁の嘱託職員に就いていた。「現役のころに知り合った会社に天下った」と陰口を叩かれるのが嫌でしかたなかったらしい。収賄役人を追いかけてきた自分が人生の最後のほうになって、天下りのような真似をしては、二課刑事の誇りをドブに捨てるように思えたようだ。

結局、嘱託職員として5年期限で再雇用され、犯罪被害者遺族の支援を担当した。その期限が切れ、今度も再就職先を斡旋しようという話があったが、彼は現役のときに培った人脈を一切使おうとしなかった。そして、ハローワークに通って就職先を見つけている。

その話を聞いて取材するうちに、私の古い友人からもらった「石礫」のメールを思い出した。

友人は地方の交番で万年巡査として終えた警官だったが、ある時、警察官を石つぶてに喩えるメールを私のところに送信してきた。それにはこうあった。

〈それに対する見返りなど微塵も期待しない、歴史上に無名の士としても残らない、「石礫」としてあったに過ぎない〉

その言葉に重ねて、清廉に生きた刑事たちの人生を残したいと思った。だから、最新刊『石つぶて―警視庁 二課刑事の残したもの』は外務省機密費詐取事件を舞台としているが、刑事捕物帳でもなければ、警察組織について書いたものでもない。

物語の遠景に、汚職を摘発できなくなった警察とその時代が見えるのは、刑事の有り様と警察組織がいま、問われているからだ。

石つぶて

読書人の雑誌「本」2017年8月号より