デンマーク・コペンハーゲンのフレデリクス教会にあるマルティン・ルター像(Photo by iStock)
格差・貧困 宗教

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ヴェーバーの名著を読んで考える

経済学者が説くプロテスタンティズム

1517年にドイツのヴィッテンベルクでマルティン・ルターがカトリック教会による免罪符(贖宥状)を批判する文書を発表したことがきっかけとなって宗教改革が始まった。

今年は宗教改革500年の記念の年なので、ドイツやスイス、オランダなどプロテスタンティズムが強い地域では、盛大な記念行事が行われている。

そもそもプロテスタンティズムは、「イエス・キリストの原点に還れ」と主張する復古運動だった。これが近代的な資本主義を発展させる原理に転化した理由を追究したのがドイツの経済学者・社会学者であるマックス・ヴェーバーだ。

 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)は、名前だけが有名であるが、実際に読了した人はあまりいない。今回、この執筆のために再読したが、キリスト教神学の知識がない人にこの本を理解するのは至難の業だ。筆者は基礎教育がプロテスタント神学なので、本書の内容をわかりやすく言い換えることができる。

ヴェーバーは、資本主義への転換を成し遂げた人々が、金儲けを嫌うプロテスタント教徒であったことを強調し、こう述べる。

〈経済生活における新しい精神の貫徹という、外観上は目立たないが、しかしこうした決定的な転換を生み出したのは、通常、経済史上どの時代にも見られる命知らずの厚顔な投機屋や冒険者たち、あるいは端的に「大富豪」などではなくて、むしろ厳格な生活のしつけのもとで成長し、厳密に市民的な物の見方と「原則」を身につけて熟慮と断行を兼ねそなえ、とりわけ醒めた目でまたたゆみなく綿密に、また徹底的に物事に打ちこんでいくような人々だったのだ〉

ここで必要な補助線が、宗教改革者のカルバンが唱えた二重予定説だ。

すべては「神」のため

神は、人間について一部の人々は選ばれ救済される、残りの人々は選ばれずに滅びることを、人間が生まれるよりもずっと前に定めたという考え方だ。そうなると人間の努力は無意味だと考えて、怠惰な人間が生まれるように見えるが、そうではない。

「努力しなくても構わない」と思うことは、その人が選ばれておらず、滅びに定められていることの証左なのである。選ばれている人は、自己の能力を最大限に開花させ、それを自分のためでなく、神の栄光のために捧げるのだ。

神は、キリスト教徒が隣人を愛することを望んでいるので、神によって選ばれている人には他人のために働くことが求められる。このような道徳観が資本主義の根底になる。

ヴェーバーの表現だとこうなる。

〈このような個人の道徳的資質は、倫理上の原理とか宗教思想などとなんら関係のあるものではなくて、そうした方向づけに対しては本質上むしろネガティヴなもの、すなわち、旧来の伝統から離脱させる能力、したがって何よりも自由主義的な「啓蒙思想」こそが、そうしたビズネスライクな生活態度にとって適合的な基礎となる、と人々は考えるかもしれない。

実際今日では一般にまったくそのとおりなので、生活態度は通常宗教上の出発点をもっていないばかりでなく、両者の間に関係のある場合でも、少なくともドイツでは、それはネガティヴなものであるのがつねだ。

現在では、通常「資本主義精神」に充たされた人々は、教会に反対ではなくても、無関心な態度をとっている。天国における無為な生活の思想は、信仰深くても、活動的な彼らの性格には魅力がない。彼らの目には宗教は地上の労働から人々を離れさせる手段と映じるのだ。休みなく奔走することの「意味」を彼らに問いかけて、そうした奔走のために片時も自分の財産を享楽しようとしない態度は、純粋に現世的な生活目標から見ればまったくの無意味でないかと問うとき、彼らは、もし答えうるとすれば、「子や孫への配慮」だと言うこともあるだろう〉

プロテスタント的な市民が子や孫のために働くという動因があるとしても、それはこの人々に限られたことではない。真の動因は別のところに見いだされるべきであるとヴェーバーは考える。