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ライフ 日本

中華料理店が「冷し中華」を通年で出さないワケ

ニッポン「冷し中華」考【前編】

きっかけは「全日本冷し中華愛好会」

筒井康隆・編集の雑誌『面白半分』に、全日本冷し中華愛好会のことが載ったのは1977年のことである。

全日本冷し中華愛好会、略して全冷中。

冬にも冷し中華を食べさせろという運動を展開する会であった。

山下洋輔に筒井康隆、タモリらが中心にいたので、どこまで本気で真面目でクレージーだったのかはよくわからない。

雑誌『面白半分』。「何故冬にはやらないのだ。どうして冬に食ってはいかんのだ。これはまったくいわれのない差別ではないか(中略)よし。戦おう。もうこれ以上我慢できない。冷し中華の長かった忍従と屈辱の歴史は本日をもって終る。全日本冷し中華愛好会が今結成されたのだ」〜山下洋輔の連載「全冷中顛末記」1997年7月号

1977年にはそういう大人たちがあちこちでふざけたことをやっていたので、地方で受験勉強をしながら、ただ雑誌を読んでいた私には、冗談ぐあいが測りきれなかった。

とにかく、冬に冷し中華を食わせろ運動については、断然、支持する、と強くおもっていたばかりだ。まあ、浪人生はヒマなのである。

それまで、何となく好きだった冷し中華を、圧倒的に好きになりだしたのは、この『面白半分』全冷中の影響だとおもう。

 

そして、1978年の2月、大学受験のために東京に出てきたとき、三田の中華料理店で「冷麺」の張り紙を見た。おお。やはり東京は違う。“全冷中”の活動が実り、2月にも冷麺が食えるのかと、勇んで店に入った。

少し説明が必要だとおもうが、私の育った京都などの関西エリアでは冷し中華のことを「冷麺」とも呼んでいた。いまでも呼んでいるはずである。「冷し中華」という言葉もわかっているが(でないと、雑誌『面白半分』の全冷中の意味がわからなくなる)、冷麺と呼んでいることが多かったとおもう。1978年時点ではそうである。

「チャーハン/焼きめし」「ラーメン/中華そば」のようなもので、どっちで呼んでも同じものが出てくることになっていた(京都では)。

だから三田の商店街で「冷麺」の文字を見て、何の疑いもなく冷し中華のことだとおもって、喜び勇んで入店したのだ。

あとから考えると、そこは中華料理店ではなく韓国料理店、おそらく焼肉店だったのだとおもう。でも、東京にびびりまくっていて、だからこそ地方出身者に見られないように必死だった受験生としては、そんな細かな部分まで見ていない。

冷麺を注文した。

きちんと冷麺が出てきた。

東京で冷麺を注文しても、冷し中華は出てこない。冷しあめも出てきません。(冷しあめも東京でついぞ見かけたことがない)。

きちんと韓国料理の冷麺が出てきた。

あの、焼肉を食べたあとに、〆めで食べるととてもおいしい、あの冷麺である。

いまでこそ冷麺は大好きだし、よくわかんない感じでのってるりんごとかのフルーツも大好きだ。しかし、冷し中華を熱望して、冷麺が出てくると、ものすごく驚く。

しかも、冷麺を食べたのはこのときが初めてだった。見たのも初めてである。冷麺の特徴は、あの麺である。ラーメンとは違う。最初、食ったとき、なんだこれは、蒟蒻かと驚いた。蒟蒻ではありません。でもびっくりした。説明もなしに蒟蒻ぽい麺が出てくると、みんなでおれを騙してるんじゃないか、という気分になってしまう。

もちろん誰も騙していない。

筒井や山下の運動で東京では冷し中華がいつでも食べられるようになったわけではないのか、と三田の薩摩藩邸あとを眺めながら、嘆息した。なんて、薩摩藩は関係ないですね。