歴史

旧日本軍はこうして日米開戦の「熱狂」を作り上げた

なぜすべての国民を戦争に巻き込めたのか
一之瀬 俊也

国民の〈軍事リテラシー〉

しかし、こうした大艦巨砲主義への――ある意味で旧日本軍そのものへの――批判に対しては、近年の歴史研究で反論が加えられている。その要点は、米海軍の空母戦法や艦隊編制は日本軍もほぼ同じ時期に採用していたし、米海軍もまた多数の新型戦艦を建造するなど、戦艦に注力していたではないか、というものである。

その一例として、社会人類学者の森雅雄は、日本海軍が戦艦を重視して温存したというのは正しくなく、実際には旧式だが速度の出る金剛型を除いて使い途がなかったのが実情であるという。さらに米海軍の高速空母部隊と日本軍の連合機動部隊の創設はほぼ同時の1943(昭和18)年8月であり、日米の差はないと指摘している(森「イデオロギーとしての「大艦巨砲主義批判」」)。

 

アメリカにおける軍事史研究でも、元米海軍大学校教員のトーマス・C・ホーンは、第二次大戦中の米海軍における航空母艦と戦艦との関係を扱った2013年の論文で、米軍が1943年以降編成したのは空母部隊Carrier forceではなく、空母と戦艦その他の連合部隊Combined forceであったし、1944年、対日反攻の主役となった米海軍第三艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼーの頭のなかにあったのは、米海軍大学校が日本海軍と同様に何十年にもわたって想定、研究してきた「決戦decisive battle」であった、と論じている(Thomas C. Hone, “Replacing Battleships with Aircraft Carriers in the Pacific in World War II”)。

ホーンの指摘に従うなら、米海軍も当時の艦隊戦術のなかで戦艦にも飛行機と同じく重きを置いていた――決して軽視してはいなかったし、作戦の目的も日本海軍と同様、敵艦隊の撃滅すなわち「決戦」に置かれていたのである。

しかし、彼らの議論にはほとんど出てこない存在がある。それは、戦争の当事者、もしくは担い手の有力な一部であった日本国民である。彼・彼女らは来たるべき(あるいは遂行中の)戦争の戦われ方をどう認識し、戦争に関与していったのか。それは大艦巨砲主義を受容した、戦艦によって戦われるところの戦争だったのだろうか。

総力戦としての太平洋戦争が国民によって支えられて遂行された以上、彼・彼女らの戦争認識もまた、問題とされて然るべきだろう。

こうした国民の〈軍事リテラシー〉というべきものの作られ方について、本書では主として海軍の宣伝パンフレットや市販戦争解説書、そしていわゆる日米仮想戦記などの史料を使って確かめてみたい。このことは、近代日本の軍や政府が、国民を戦争へどう動員していったのかという問題にも深く関わるだろう。

大正~昭和戦前期の日本海軍による対国民宣伝については、ここ10年ほどのあいだにいくつかの研究論文が刊行され、従来陸軍にくらべ影が薄いとされてきた海軍宣伝の実態を再検討した。その結果、少なくとも都市部では一定の効果が発揮され、海軍の望む軍拡世論を形成できたことなどが指摘されている(福田理「一九三〇年代前半の海軍宣伝とその効果」、坂口太助「戦間期における日本海軍の宣伝活動」)。

しかし、海軍はなぜ自らの存在意義や必要性を国民に語る必要があったのか、将来の戦争はこのように戦って勝つのだと説明しなくてはならなかったのかについては、なお考える余地があるだろう。

なぜ軍事知識の普及は必要だったか

その答えは、軍にとって自らの戦争を根底で支えるのが老若男女含めた国民であり、彼・彼女らの協力を引き出すためには、総力戦がいかに多くの金や人、物を必要とするかを教え、理解させる必要があったからである。

1941(昭和16)年、対米英開戦前に大政翼賛会が作成した小型の宣伝パンフレット『隣組読本 戦費と国債』は、その題名通り、隣組に編成された都会の人びとに向かって、戦費調達のための国債購入を「一人一人に国防の責任がある 国債を買つて君の責任を果せ!」などと呼びかけたものである。この場合、隣組は国民に相互監視させることでより多くの国債を確実に買わせるために作られた組織ということになる。

『戦費と国債』は「私達が国債を買つたお金は〔中略〕事変遂行に必要な飛行機、戦車、大砲等の兵器を買入れたり、兵隊さんの着る軍服や糧食を買入れたりする費用に使はれ」ること、「今度の戦費の約八割七分は私達が国債を買つたお金で賄(まかな)はれること」を説明し、「日本中で一世帯それぞれ百円の国債を買へば飛行機や弾丸がどの位出来るか」と読者に問いかけ、前者は一万二〇〇〇機、後者は三一八億発、と答えている。

この「国民すべてが○○すれば××が△△買える(造れる)」というのは戦時日本特有のありふれた宣伝文句であるが、本書が考えたいのは、なぜここで××は戦艦ではなく飛行機なのか、なぜ飛行機が特段の説明もないまま、国民の「責任」で数を揃えるべき兵器として挙げられているのか、ということである。予想される答えは、「国民がその理由を(啓蒙の結果)説明されるまでもなく知っていたから」となる。