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歴史

旧日本軍はこうして日米開戦の「熱狂」を作り上げた

なぜすべての国民を戦争に巻き込めたのか

太平洋戦争の敗因は日本軍の「大艦巨砲主義」がもたらしたという通説をくつがえし、飛行機に焦点をあて戦争の実態を著した、一ノ瀬俊也氏の『飛行機の戦争』が話題だ。

「飛行機」を主軸に、太平洋戦争における国民への軍事リテラシーはどのように高められていったのか、国民の飛行機に対する期待値など、戦前・戦中の現実を当時の資料をもとにあぶり出している。今回、戦後企画として、本書の「はじめに」を特別に公開する。

一之瀬俊也さんのインタビューはこちら→http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52429

大艦巨砲主義への批判

拙書『飛行機の戦争』の目的は、戦前の一般的な日本人が、来たるべき対米戦争における飛行機の役割をどう想像していたのか、あるいは人びとにとって飛行機とはそもそも何であったのかを説きあかすことにある。

その飛行機とある意味で密接な関係を持つ「大艦巨砲主義」という言葉がある。「大口径の備砲をもつ戦艦を中核とする艦隊の建設・保持を重視する海軍軍備と戦略思想」(『日本史広辞典』)をさす。

現代日本の歴史学研究において、太平洋戦争に敗北した理由の一つとしてよく批判されるのが、この大艦巨砲主義である。時代遅れの戦艦に固執して飛行機を軽視した結果、米軍のような航空機主体の戦いに転換するのが遅れた、というのである。

 

こうした批判の一例として、2015(平成27)年に学術的知見に基づき編集された歴史辞典『アジア・太平洋戦争辞典』の「大艦巨砲主義」の項を挙げる。同項は、日本海軍が伝統的な大艦巨砲主義から基本的に脱却できなかったのは艦隊決戦に拘りつづけてきたためであり、伝統と権威が足枷となって、航空戦力を基軸にした海軍戦力の再構築が果たせなかったことも日本海軍の滅亡に拍車をかけた一因と批判的に解説する。

そこで戦艦大和、武蔵らは、日本海軍における同主義の「代表事例」とされる。たしかに、日本海軍が長い年月と多額の予算・資材を投じて建造した巨大戦艦は、いずれも米軍の航空母艦から発進した飛行機によって一方的に撃沈され、日本自体も降伏に追い込まれた。

この大艦巨砲主義に対し、戦後日本人は折々に「反省」や批判の言葉を発してきた。それは決して責任追及から逃れるための、上辺だけのポーズではなかったはずである。

例えば、元海軍の高級軍人たちが太平洋戦争敗北の原因を探るため、1980(昭和55)年から12年間、130回余にわたり長期間開いていた「海軍反省会」と称する会合でも、寺崎隆治・元大佐(航空母艦・翔鶴副長などを歴任)は「これ〔大艦巨砲主義〕は(昭和)10年頃から14年頃の航空機の目覚ましき発達というようなことを見越せなかったんじゃないかと思うんです。それは本当に馬鹿だったのか。万里の長城式だったのか」と、内々の場であるにもかかわらず「反省」の言葉を口にしている(1982年7月7日の第33回、戸髙一成編『証言録 海軍反省会 四』)。

とはいえ、寺崎はこれにつづけて、自らの空母経験では主力艦や巡洋艦がバックアップしてくれないかぎり、航空母艦だけでは到底機動艦隊も機動作戦もできなかった、よって「これ〔大艦巨砲主義〕をあまりこき下ろすのは適当でなかった」とも発言している。

さらに、「海軍は大艦巨砲主義を墨守していた」式の「反省」には、後の反省会で後輩の内田一臣・元少佐から、海軍は昭和12年起工の大和・武蔵を最後に戦艦を造っていない、一方空母は全部で25隻も作ったではないかとの反論が出ている(1983年9月14日の第46回、『証言録 海軍反省会 六』)。

しかし、戦争の悲惨な記憶が生々しく残る戦後日本社会で広く受け容れられたのは、「本当に馬鹿だった」という一見良心的な「反省」のほうであった。

戦後社会における戦争は、たしかに真摯(しんし)な反省の対象ではあったが、企業のビジネスになぞらえられたり、経営者用の“教材”としても語られることがあった。

その最たる例は有名な『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(戸部良一ほか著、1984年)だろうが、1963年に刊行された小林宏『太平洋海戦と経営戦略』は、高度経済成長に向かう日本の経営者のために、太平洋戦争時のミッドウェー作戦を事例として経営戦略論を指南した本である。

同書は、日本海軍が大艦巨砲主義に固執して近代戦における航空機の存在を軽視したことを「投資計画」上の失敗例と論じている。この陳腐だが、それゆえわかりやすい喩え話は、以後の日本社会に定着していった。