1969年警察署での訓示の様子(Photo by Getty Images)
警察 インテリジェンス

日本はテロに屈した…公安捜査官がそれでも捨てられなかったもの

ある公安警察官の遺言 第3回
報道記者として、警察やインテリジェンスの世界を取材し続けてきた竹内明氏。その竹内氏が長年、交流を持ってきた、ひとりの元公安警察官の生きざまからは、極左過激派やオウム真理教事件など、昭和から平成にかけての激動の時代の「裏側」で、決して光を当てられることなく活動してきた男たちの戦いが透けて見えます。知られざる公安警察の実像に迫る連続ルポ、第3回(前回までの内容はこちら)。

「いったい、何なんだ」

1975年8月4日、日本赤軍がマレーシア・クアラルンプールのアメリカ大使館とスウェーデン大使館を占拠、領事らを人質に立てこもる事件が発生した。「クアラルンプール事件」だ。日本赤軍は警視庁公安部の古川原一彦たちが逮捕した佐々木規夫ら獄中犯の釈放を要求、応じなければ人質のアメリカ領事を処刑すると通告した。

日本政府は要求に屈した。超法規的措置による釈放を決断し、佐々木ら5人の獄中犯を羽田空港から飛行機で出国させてしまったのだ。

古川原は、当日の衝撃を、こう表現した。

「釈放されたという事実を聞いたときは呆然とした。いったい何なんだろう? という感想しかなかった。お偉いさんたちの、明らかに間違えた判断で、5ヶ月間の捜査が水の泡になったんだからね。でもこれだけじゃ終わらなかった」

古川原はその2年後の「ダッカ事件」で、再び歯軋りをすることになる。

 

日本赤軍のメンバー5人が、インド・ムンバイ空港を離陸直後の日本航空機をハイジャックしたのだ。ハイジャック犯の中には、超法規で釈放され、日本赤軍に合流した佐々木も含まれていた。乗客142人、乗員14人を乗せた日航機は、バングラデシュのダッカ空港に強行着陸。日本赤軍は獄中犯9人の釈放と、身代金600万ドル(当時の日本円で16億円)を要求した。

釈放リストの中には、東アジア反日武装戦線大道寺あや子ら、佐々木の仲間も含まれていた。