経済・財政

アダム・スミスの「神の見えざる手」を多分、あなたも誤解している

「自由放任でOK」なんて言っていません
高 哲男

いまこそ、誤解を正そう

以上のような思想から導かれる、スミスの社会観・国家観はこうだ。

「道徳」とは、人間社会の中で「どのような行為が他人から認められ、どのような行為が認められないか」という経験則にもとづいて、われわれが「自分自身のために、自然に定める」規則である。この道徳はさまざまな規模の集団で機能しているが、中でも最大のものが国家である。そこには、子供や親、親戚、友人といった人間関係のすべてが含まれる。

一方で人間社会には、こうした道徳によって基礎付けられない「慣習的な共感」というものもある。さまざまな集団に対する愛着や思い入れがそれにあたる。「愛国心」も、歴史的に形成されてきた「慣習的な共感」の一つにすぎない。

こうした立場からスミスは、美しく秩序立った社会を構築することを優先し、「国民の幸福を増進する」という本質的な目的を軽視する政治家を「体系重視の人間(マン・オブ・システム)」と呼んで厳しく糾弾している。

 

「体系重視の人間」は、〈自分自身がとても賢明であるとうぬぼれる〉。心の中に描く、理想的な統治システムの美しさに心酔して、ごくわずかな逸脱も我慢できない。こうした統治者は、あたかもチェス盤に駒を並べるように、社会の構成員を管理できると考えているのだ。

だが、チェスの駒とちがって、人間社会という「巨大なチェス盤」の上では、それぞれの駒、つまりひとりひとりの人間がバラバラな動き方のルールを持っている。

このチェス盤を用いたスミスの比喩は、「当局が自由な社会を厳密に管理するのは不可能だから、政府は自由放任政策しか取り得ないのだ」というメッセージであると理解されてきた。しかし、スミスがそのような単純な思考をするはずもない。

なぜ、スミスは『国富論』の最後に「公共事業」の振興を説いたのか。それは、彼が経済的な豊かさの発展そのものよりも、むしろその前提条件である社会の安全、さらにそれを支える人々の道徳を培うことこそが重要であると考えていたからだ。

アダム・スミスは、少なからぬ人にいまだ誤解されている。彼が考えていた社会観・国家観とは、「神の見えざる手」によって、放っておけばうまくいく、というようなものではなかった。むしろそのような自由放任の社会の中で、必要不可欠な「正義」や「道徳」がいかにして形作られるのかを、彼は考え抜いたのである。

高 哲男(たか・てつお)1947年生まれ。九州大学経済学部経済学科卒業。現在、九州産業大学大学院教授、九州大学名誉教授。博士(経済学)。専門は、経済学説、経済思想。著書に『ヴェブレン研究』『現代アメリカ経済思想の起源』『暮らしのなかの経済思想』、訳書にヴェブレン『有閑階級の理論』メイソン『顕示的消費の経済学』(共訳)アダム・スミス『道徳感情論』などがある。