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海老蔵親子の「宙乗り」に大喝采! 歌舞伎の本質がここにある

「現実の家族」と「虚構の舞台」の融合

「そこにいる」ことに拍手

どんな名優も、子役には勝てないと言われる。

映画やドラマには子役は欠かせず、たしかに、みなうまい。ドラマの中の子どもは可哀想な境遇に置かれている設定が多いので、それを演じる子役は見る者を泣かせる。

その役としてのセリフや表情や仕草に感動するだけでなく、子どもなのにちゃんと演技をしていることに驚嘆して感動し、さらに、一生懸命に演技をしている健気さにも泣かされる。

子役は、どこまで演技と意識してやっているのか分からず、見るほうも、虚構としての子どもに感動しているのか、子役の演技に感動しているのか、わからなくなる。

さて、今月(2017年7月)の歌舞伎座は、4歳の男の子が客席を沸かせている。堀越勸玄、市川海老蔵の息子である。

彼への感動は、しかし、普通の子役への感動とは、かなり異なる。

役名は「白狐」で、狐の精霊なのだろう。衣装もつけ、セリフもある。休憩を挟んで4時間弱の長い芝居のなかでほんの数分の出番で、花道を走って登場し、立ち止まって、名乗り、舞台に出て、父・海老蔵に抱かれて宙乗りをする。

それだけなのに、場内はわれんばかりの拍手である。

観客は彼の白狐の演技に感動しているのではないだろう。

幼い子が一生懸命にやっているので応援のための拍手でもないように思う。

人びとは「白狐」を見ているのではなく、あくまでも「白狐として登場した勸玄くん」を見ている。たしかに可愛らしい顔立ちだが、それに感動してるのでもない。

客席にいる誰もが、この四歳の男の子がどういう生まれで、どう育ち、いま、どんな境遇にあるかを知っていて、拍手をしている。

といって、可哀想だと同情して拍手をおくっているのでもない。彼が「そこにいる」ことに拍手をおくっているのだ。

演劇あるいは芸能ごとには宗教性があるが、まさに神と天使が昇天していくのを見るように、人びとは海老蔵と勸玄君を仰ぎ見ていた。

 

歌舞伎と近代演劇の違い

ワイドショーや女性週刊誌では、涙の感動物語に仕立てていたが、客席は明るい雰囲気だった。すぐに幕間となり、客席もロビーも「無事に宙乗りできてよかった」という安堵と、「それにしてもかわいい」という単純な感想に包まれ幸福感に満ちていた。

演劇としては、正しいあり方ではない。しかし、こういうのも歌舞伎の魅力なのだ。

歌舞伎が他の演劇とは異なる点は、たとえば女形とか、いるけどいない黒子の存在とか、いろいろあるが、役者の子の「初お目見得」とか「初舞台」そのものが、演目となることも歌舞伎ならではといっていい。

今回の「駄右衛門花御所異聞」での堀越勸玄の登場は、歌舞伎以外の演劇では考えられないものだ。

当初は予定していなかったが、チケットの前売りが始まる直前に松竹から強い依頼があり実現したという。

だから、まさにとってつけたようなシーンなのだ。近代演劇の理屈からいえば邪道である。

近代の演劇とは作者がいて、作者が訴えたいテーマがあり、それに基づいた優れた台本があり、それを優れた演出家が知識と才能を絞り出して、名優がもてる技術と精神の限りをつくして入魂の演技をするものだ。そうでなければならない。

しかし近代演劇の原理とは別の原理というか道理で動くのが歌舞伎なのだ。