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「フォワードは自分で行け」日本とは違うスペインの気持ちいい感覚

~安永聡太郎Vol.8~

日本の感覚でいると止められた

98年6月、安永聡太郞は1年間のスペインリーグ2部、ウニオ・エスポルティーバ・リェイダ・S・A・D(以下、リェイダ)でのレンタル移籍を終えて、横浜マリノスに戻った。

この時期、フランスではワールドカップが行われていた。ワールドカップ初出場を果たした日本代表は、グループHに入り、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと対戦。1つの勝ち星、引き分けすらも挙げることはできなかった。

そのチームの中には、安永と一緒にワールドユースに出場した中田英寿がいた。彼は96年アトランタオリンピック出場をスプリングボードとして、日本代表の中心選手となっていた。この大会の後、中田はイタリアのペルージャへと移籍。安永と入れ違いに欧州へ渡る形となった。

マリノスは、ハビエル・アスカルゴルタ体制になって2年目を迎えていた。

53年生まれのバスク人で72年にアスレティック・ビルバオのトップチーム昇格。しかし、現役時代は短く、76年に引退し指導者の道に入った。エスパニョール、セビージャ、テネリフェなどの監督を経て、93年にボリビア代表監督に就任。チームを94年ワールドカップ・アメリカ大会に導いた。その後、チリ代表監督を経て、97年から横浜マリノスの監督となっていた。

アスカルゴルタはスペイン帰りの安永にとってやりやすいものだったという。

「リェイダに行ってすぐの練習のとき、(前線にいる)ぼくのところにボールが来たので、日本の感覚でボランチに一度、落として前に出たんです。そうしたら、監督のファン・デ・ラモスがピーって笛を鳴らして停めたんです。『ボールが折角、フォワードまで行っているのに、なんで下げるんだ。自分で(ゴールに向かって)行きなさい』って。

もちろんペナ(ルティ・エリア)ぐらいのところで受けたら、そうするんですけど、ハーフラインとペナの間、丁度真ん中ぐらいだったんです。日本だったら、まずボールを取られないことを考える。その感覚が染み込んでいた。それがファン・デ・ラモスには納得できなかったみたいなんです。

フォワードなんだから、受けたら自分で行けと。そういう動きが、リェイダではそこそこできるようになっていた。そして横浜に帰ると、監督もスペイン人で同じような指示だった。自分としてはすごく気持ち良くサッカーができた」

 

ワールドカップによる中断明けの初戦、7月25日のベルマーレ平塚戦で安永は先発起用されている。元スペイン代表フリオ・サリナスの怪我により、城彰二と2トップを組むことになったのだ。

この試合は、マリノスが4対1で勝利している。安永はサリナスがスタメン復帰した第1ステージ最終戦、8月8日のジェフユナイテッド市原戦を除いて、第1ステージ全ての試合で先発している。