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加計学園とは何者か 特別長編レポート「学校経営を家業にした一族」

第一部 学園創立者・加計勉という男
現代ビジネス編集部 プロフィール

その時の貴重な証言が残されている。当時、岡山県庁の私学担当係長を務めていた畑忠雄氏という人物が、前掲の『二十周年記念誌』に以下のように記しているのだ。重要な記述なので、少し長くなるが、畑氏と勉氏のやりとりを引用する。

〈昭和36年(1961年)のある日、加計学園理事長と名乗るひとりの紳士の来訪を受けました。お会いしてみると、岡山市内に電気関係の工業高校を新設したいというお話でしたが、この頃、岡山県は高校進学生徒数減少期にあって既設高校の充実や入学定員のことなど多くの問題点を抱えていた時期であったので、高校新設は難しい旨を説明しました〉

やんわりと新設申請を退けようとした畑氏に、勉氏は「日本はいま工業立国をめざしている。私は立派な人材を産業界に送り出したいのだ」と意気込みを滔々と語りつつも、いったん引き下がった。

 

時をおかずして、勉氏が再び岡山県庁を訪れた際にも、畑氏は「お考えはわかりました。しかし、資金的裏付けが十分でなければ絵に描いた餅になってしまう」と、やはりすげない答えを返した。

これに対して、勉氏は驚くべき言葉を返す。

〈「私の理想とする学校を作り上げ、軌道にのせるためには一切の私財を投げ出す決心をしておりますので、十分運営できると確信があります」〉

わずか数ヵ月で「逆転認可」

畑氏によれば、このひと言が県庁を動かし、ゴーサインを出させるきっかけになった。事実、前年の1960年夏に勉氏は私費で岡山市街地北側の小高い丘、半田山の頂上付近およそ5万平方メートルを購入している。戦前戦中は旧陸軍練兵場が、戦後には自衛隊駐屯地が置かれたこの一帯は、当時は木々が鬱蒼と生い茂り、水はけの悪い原野だったという。

1961年9月、岡山県私学審議会会長の高畑浅次郎氏が広島の英数学館本部を訪れた。ちなみに高畑氏は岡山一中(現・岡山朝日高校)校長も務めた人物で、スタジオジブリ所属の世界的アニメ作家・高畑勲氏の父である。

すでに予備校の経営状況と資金繰りの調査、勉氏の身辺調査は済んでおり、高畑氏も「大局的見地から検討してみたらどうか」との積極的見解を示した。しかし、私学審議会での議論は紛糾する。再び畑氏の証言。

〈予想されたように委員の間からは入学定員のからみや申請内容の実現性などの問題点について意見が続出しました。しかし設立者(注・勉氏)のよりよい私学創設への情熱に加えて周到な開設計画と、その実現性などが認められ「可」の結論が出されました〉

「学校法人加計学園」が生まれた瞬間だった。

加計学園本部のある岡山理科大学全景(Photo by Tatsushin/CC BY-SA 3.0)

勉氏が私財を投じて買い取ったという丘の上には現在、岡山理科大学とその附属高校・中学、そして加計学園の本部がおかれている。その言葉通り、予備校経営で得た莫大な資産をほぼ全て費やし、勉氏は私学創設に人生を賭けたのである。のちの加計学園の威容を見れば、その賭けは成功したと言えるだろう。

勉氏が県庁を初めて訪れてから、学校設立認可が下りるまでの期間はわずか数ヵ月。その間に、県庁と私学審議会でどのような調査・検討がなされたか、また水面下でどのような根回しが行われたのか、今となっては知る術がない。

ただ、「審議会では議論が紛糾したものの、最終的には『スピード認可』が下されて学校設立が実現した」という経緯は、現在「問題」とされている、森友学園の小学校開設や、加計学園の獣医学部設置の決定プロセスに通底するものがないとは言えない。勉氏をはじめとする加計学園の関係者らの間で、このときの「成功体験」が、彼らのその後の方針や動き方に、大きく影響したのではないだろうか。

                                                           (7月24日公開の第二部に続く)

参考文献:『加計学園創立二十周年記念誌』加計学園、1985年

      『加計学園創立30周年記念誌』加計学園、1992年

      鶴蒔靖夫『加計学園グループの挑戦』IN通信社、2011年