原爆で9人を失った、移動劇団「桜隊」の悲劇を辿って

『戦禍に生きた演劇人たち』

ノンフィクション作家・堀川惠子の最新作『戦禍に生きた演劇人たち 演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』が、7月7日に発売された。

1945年8月6日、内務省から派遣されていた移動劇団「桜隊」の9人が被爆し、5人は爆心地そばの宿舎で即死、4人は広島では一命をとりとめたが、2週間後には全員避難先で死亡した。昭和演劇史でも有名な桜隊の受難である。

劇団の座長の丸山定夫は、戦前に一世を風靡した名優であった。築地小劇場で腕を磨き、映画、ラジオと引っ張りだこだったが、舞台の魅力が捨てがたく、戦時中にもかかわらず新劇団を立ち上げ、統制された中でも活動を続けた。内務省に命じられた疎開先に広島を選んだことが運命の分かれ道となった――。

博物館の倉庫に眠っていた遺品の発掘により、桜隊と八田元夫の足跡をたどり戦前・戦中・戦後の演劇史を書き換えた本作から、その冒頭部を特別公開する。

演劇博物館倉庫の奥深くに

無機質な会議室のドアを開くと、20人は座れそうな長テーブルの上に、巨大な段ボール箱がびっしりと並べられていた。事前に聞いてはいたが、まずその量に驚く。中に収められているのは全て、ある演出家の遺品だ。没後40年、これまで処分されたと言われてきた品々である。

研究棟が建ち並ぶ早稲田大学の敷地の一角に、ひときわ目をひく演劇博物館がある。一七世紀ロンドンの劇場フォーチュン座を模して、正面にはエリザベス朝時代の舞台が、両翼には桟敷席をイメージした木枠の窓が配置され、キャンパスの中でそこだけ異空間を形成している。昭和三年(一九二 八)、坪内逍遥の古希を祝って設立されて以降、国内外の演劇関連に特化した資料を一手に所蔵する、日本で唯一の専門博物館として運営されてきた。

その倉庫の奥深くに、演出家、八田元夫の膨大な遺品は眠っていた。一部の演劇台本を除いては外部に公開されるデータベースにも登録されておらず、一九九〇年代初頭に寄贈されて以降、誰の目にもふれていない。一度、アーキビストの手によって新品の封筒に分類されてはいるが、量が膨大で、完全には整理しきれていないのだと担当者は申し訳なさそうに説明した。

八田元夫(一九〇三~一九七六)という名前を聞いても、ピンとくる人はもうほとんどいないだろう。八田は、戦前、戦中、戦後と、三つの時代を新劇の世界に生きた演出家だ。子も持たず、趣味も仕事も芝居だけ。舞台に費やした歳月は、七二年の生涯のうち五〇年以上。文字通り人生を演劇に捧げ尽くした男である。

八田元夫
 

遺品の入った封筒を、ひとつひとつ開けていく。まず演出家になる前のものと思われる品々が現れた。古びた家族写真には、広い庭に丸髷(まるまげ)に着物姿の母親と勝ち気そうな男の子、明治末期のものらしい。大正一五年(一九二六)発行の東京帝国大学文学部の卒業証書、いそやに大きく威圧的だ。聞き慣れない社名の新聞社の採用通知もある。八田に新聞記者という前歴があったとは初耳だ。

別の封筒には、紅白の大入り袋が何十枚も詰まっていた。公演の切符が完売した時に配られるご祝 儀袋で、表には墨字で「八田様」とある。テレビや映画と違い、肉体の芸術とも言える芝居は、板の上の一瞬だけが真実だ。後には何も残さない。

確かにそこに舞台があり、大勢の観客の胸を打ったであろう証ともいえる大入り袋は、思い入れの深い品に違いない。どれも皺ひとつないうえ色褪せてもおらず、いかに大切に保管されていたかが感じられる。

その他、戦前の劇評、戦中の演出ノート、芝居のパンフレット、書きなぐられたメモの類、手紙、そして膨大な草稿など、細かなものまで数えれば万単位に届きそうな分量だ。

加えて写真は約一七〇〇点にのぼる。撮影が許されていなかった戦争末期の舞台写真も大量にあった。ある舞台の上には「航空機増産推進移動演劇会」という横断幕が張られている。軍需工場に派遣された時のものだろう。簡素な木造りの舞台に、満員の観客が前のめりで見入っている。テレビもない時代、限られた空間に様々な世界そして人生を見せてくれる芝居は大変な娯楽だった。

ラジオ放送の収録現場で撮影された写真もあった。一本の太いマイクを囲んで、スーツ姿の俳優たちが台本片手にポーズを取っている。後ろには、巨大な日の丸の旗が掲げられていた。

戦後の八田元夫をよく知る一人が、俳優の近石真介(八六歳)だ。近石は『サザエさん』の初代マスオ、『ルパン三世』の銭形警部の声、最近ではテレビ番組『はじめてのおつかい』のナレーション で知られ、舞台は退いたが声優として息長く活躍している。その近石にとって八田元夫は、師匠であり俳優人生の原点だという。