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日本を滅ぼした、明治維新という「過ち」

一度も「検証」されない近代にメスを入れる

歴史は「勝者」のものだが…

このたび、『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』(講談社文庫)を上梓させていただいた。

実は、この著作の初刊は2012年に遡り、2015年にこれを「改訂増補版」として改めて単行本の形で世に問い、今回これをさらに増補し、「完全増補版」として文庫化したものである。

今更ながら、我が国近代という時代は、不思議なことにまだ一度も「検証」というメスを入れられたことがないのだ。司馬遼太郎氏風の表現をすれば、これは「世界史的にみても」稀有な事例というべきであろう。

歴史を検証しないということは、歴史から何かを学ぼうとする意志をもたないということである。このことがいかに罪深いことであるか、私たちはそろそろ手痛い審判を受けるに違いない。

私たちは、明治維新という出来事以降の時代を「近代」と呼んでいる。そして、私たちが受けてきた教育、今も学校教育として施されている教育――これを「官軍教育」と呼ぶことについては、今やかなりの規模と広がりのコンセンサスが成立している――では、近代=先進的という意味を色濃く含ませて教え込まれるのである。

いい換えれば、近代より前の時代=近世は「後進的」な時代として否定すべきものという教育が、今もなお為されているのだ。

洋の東西を問わず、古来、戦の勝者が「歴史を書く」ことは、ごくごく普通のことであった。多くの場合、勝者はその戦と戦に至ったプロセスの正当性を説くのだ。このことは、中国史においても西洋史においても何ら変わりはない。

 

「過ちは繰り返しません」の奇妙さ

問題は、勝者の書いた歴史は一定期間を経て一度は検証されるべきものであるという宿命ともいうべき性格をもっているということだ。

人類の歴史を紐解けば、どの民族でも50年、100年という時間を経てそれを行っている。ところが、一人近代日本人のみが、これを行っていないのである。

いや、例えば、広島、長崎への原爆投下という悲劇について、

過ちは繰り返しません

と誓っているではないかという反論があるかも知れない。

しかし、これは実に奇妙なフレーズである。

このフレーズにいう「過ち」とは、何のことか。原爆投下のことか。だとすれば、私たち日本人が「繰り返しません」と誓うのはおかしいではないか。それを誓う必要があるとすれば、それはアメリカ合衆国国民であろう。あの二発の非人道的な殺人兵器を日本人に対して、それも非戦闘員に対して使用したのはアメリカ人である。

いや、この場合の過ちとは、原爆投下を招いた戦争のことをいっているのだとする見解がある。おそらく、このフレーズの解釈としてはこれが主流であろう。

そうであるとすれば、私たち日本人は原爆投下も私たち日本人にそもそもの原因があると宣言していることになる。自分たちがあの戦争を仕掛けなければ、原爆投下はなかったのだと。つまり、悪いのは私たちであったと悔いているのだ。

これは、論理的には非常に“歪”である。

繰り返すが、原爆を投下したのはアメリカ人である。

原爆投下だけではなく、東京大空襲も、大阪、名古屋、徳島、青森、富山等々、日本列島各都市への空襲も、武器も何ももたない非戦闘員を無差別に殺戮することを明白に意図して行っている点で、重大な戦時国際法違反であり、「人道に反する重大な戦争犯罪」である。