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人間を食べて生き延びた…難民に冷たい日本が忘れている私たちの歴史

現代の悲劇は本当に他人事なのか
畑中 章宏 プロフィール

開拓移民の現実

しかし移民の実態は、理想とはかけ離れた侵略的なものだった。

大下条村(現・下伊那郡阿南町)の佐々木忠綱村長は、1938年(昭和13)に下伊那郡町村会の満州視察団に参加した。

視察団の報告書は、「困難は伴うが……これを人に勧め得る確信を得た」と記す。だが佐々木は、日本人が非常に威張っていることや、中国人を侮辱しているところ、満州の人々の土地を略奪していくようなやり方を見て強い疑念を抱いた。視察からの帰国後、佐々木は分村移民を推進しなかった。

満蒙開拓は「開拓」とは名ばかりで、現地の農民が住んでいる家と土地を、強制的に安く収用したところへ入植するものだった。日本人移民はしかも、家と土地を奪われた農民たちを小作人や苦力(クーリー)として使用したのである。

満州北東部に入植した下伊那郡泰阜(やすおか)村や、満州中央部に分村した佐久郡大日向村(現・南佐久郡佐久穂町)の移民たちは、戦後になって次のような証言をしている。

「ほんとうに肥えた土で、日本から持って行った小豆をまくと、驚くほどたくさん取れた」「割り当てられた土地は荒れ地ではなく、中国人が耕作していた土地をそのまま使った。家も最初の1年は、だれかが住んでいた古い家に入った」「『あの中国人はどこへ行ったの』と聞いたら、『わからない』と大人は首を振った」……。

 

泰阜分村も大日向分村も、満州拓殖公社が畑は中国人から、田は朝鮮人から安く買い取っていたのである。

移民たちは1945年(昭和20)8月9日のソ連侵攻と敗戦により、“難民”として逃避行を余儀なくされ、集団自決をした開拓団も出た。河野村(現・下伊那郡豊丘村)の胡桃沢盛(くるみざわ・もり)村長は戦後まもなく、移民を先導した自責にかられて自殺した。

個別の理由はあるにせよ、現代の難民や移民も、祖国の政情や政策に翻弄されて、日本にやって来ようとしているのである。彼らの現実や状況を、私たち日本人は自分たちの過去の歴史を顧みながら理解すべきではないだろうか。