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人間を食べて生き延びた…難民に冷たい日本が忘れている私たちの歴史

現代の悲劇は本当に他人事なのか
畑中 章宏 プロフィール

藩の政策が生んだ悲劇

宮本常一は、宮城県で耳にした天保の大飢饉の伝承を書き留めている。

現在の青森県のあたりの人がまず生活に困り、南へ移動していった。盛岡付近まで来ると先には行けなくなり、そこへ落ち着く。その地域の人々も食べることができないので、南へ、南へと移動し、南部藩から仙台藩へ入っていった。

仙台藩の人々もまた南へ移動していた。家も何もそのまま残っているのでその中に入って住む。空っぽの中へ順に入っていく、そういう移動がみられた。

自分の藩では食えないから隣りの藩へ逃げていく。隣りの藩の人たちもその隣りへ逃げていく。そのような状態が繰り返されていたとみられる。宮本はこういった現象を「ヤドカリと同じだ」と表現している。

難民は最終的に、関東平野へなだれを打って流入した。しかし関東の人々は移動していないので、彼らは「乞食」にならざるをえない。若者たちは下男になり、どこかの町や村へ入り込み、暮らしを立てたのが実状だったようである。

前近代の社会では、為政者による過酷な政策が、飢饉をいっそう激しくした。直接生産者に対する租税の収奪が厳しく、交通手段も未発達で、遠隔地への物資の輸送も困難だったため、凶作に襲われると食糧不足をまねき、飢饉を発生させることとなった。また藩主らの利害対立による食糧の輸送禁止が、飢饉をさらに激化させた。

飢饉は人災の側面も大きく、難民たちは為政者の政策の被害者だった。

 

近代日本の国策移民

2014年(平成26)3月、安倍内閣は毎年20万人の移民大量受け入れの本格的な検討に入った。少子高齢化社会の日本で働き手不足を解消するため、積極的に移民を受け入れ、労働力に割り当てて行くとされているのだ。

こうした移民もまた私たちにとって他人事ではない歴史であり、かつて日本人は受け入れる側ではなく、新天地を求めて渡っていく側であった。

近代における日本人移民として、1868年(明治元)から1924年(大正13)までの約22万人のハワイ移民、1908年(明治41年)以降の約100年間で13万人におよぶブラジル移民、1932年(昭和7)3月の“建国”による満州移民などが知られる。

満州には、関東軍、満州鉄道の関係者のほか、農業移民である「満蒙開拓団」などが渡った。満蒙開拓団27万人のうち、37000人以上は長野県が送り出した。

なかでも下伊那地方は長野県のおよそ3分の1を占め、下伊那郡清内路(せいないじ)村(現在の阿智村)では、村の人口の2割近くの18.9%におよんだ。

長野県では当時、農家の40%が養蚕業を営んでいた。

カイコの繭からとれる生糸の9割以上は米国向けで、シルクのストッキングに用いられた。絹は第1次大戦後の好景気に支えられて需要が伸びた。養蚕は農家に貴重な現金収入をもたらす一方で、「生糸を売って軍艦を買う」といわれたように、生糸の輸出は近代日本の重要な国策だった。(拙著『蚕――絹糸を吐く虫と日本人』参照)

ところが1929年(昭和4)に起こった世界恐慌で、生糸の価格が暴落し、農家が売り渡す繭価も3分の1にまで落ちこんだ。繭を主な収入源にしていた農家は打撃を受け、村の財政も立ち行かなくなった。養蚕依存の農家と農村が、政府が推し進めていた移民政策に救いを求めたのである。

満蒙開拓もまた重要な国策であり、食糧の確保、ソ連国境の防衛のために、20年間で100万戸、500万人を移住させるという移民計画ができ、各村に移民割り当てがきた。

村を分けて満州に分村を作る「分村移民」に応じれば、移民はもちろん村にも補助金や低利貸し付けをする。恐慌下の農村再建策として、母村の過剰人口を送り出すとともに、処分した田畑を村民で分け合い、農業の経営基盤を広げることもできる。

「満州へ行けば20町歩(ha)の地主になれる」というふれこみも、村民たちに夢を抱かせた。