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人間を食べて生き延びた…難民に冷たい日本が忘れている私たちの歴史

現代の悲劇は本当に他人事なのか

難民・移民に冷淡な国と国民

日本政府に提出される難民申請者数は、5年ほど前から毎年ほぼ倍増している。昨年2016年(平成28)の難民申請は1万901件にものぼった。しかし申請を受け入れた者の割合は平均1%以下にとどまっているのだ。

昨年2月に実施された「産経・FNN世論調査」によると、「日本が移民や難民を大規模に受け入れること」に対して70%近い日本人が反対し、賛成は20%にすぎない。

ヨーロッパ諸国では、戦禍を逃れてきた在留外国人というだけで難民の地位が認められる。しかし日本では申請者に、「政治的意見を理由に、迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有すること」といった要件の証明を、厳格に求めている。

西欧の国々の大半は他国からの移住によって建設された。日本が単一民族国家であることも神話である。それにもかかわらず、国家も国民も他の国から移り住むことを希望する人にきわめて冷淡だ。

しかしその日本人も、近世近代において難民、移民は他人事ではなかった。そうした事実のなかから、民俗誌・民衆史にかかわる事例を紹介しよう。

 

近世日本の国内難民

近世の日本では、飢饉による“国内難民”が続出した。

飢饉の多くは自然災害に原因を求められるが、政治社会経済的な体制の問題と深くかかわっている。飢饉は天災であると同時に人災だった。

忘れられた日本人』などの著作で知られる宮本常一は、江戸時代後期の国学者で旅行家の菅江真澄が残した旅日記にもとづき、「天明の大飢饉」(1782~88年)と「天保の大飢饉」(1833~39年)の際の“難民問題”についてくわしく記している(『旅人たちの歴史2 菅江真澄』)。

菅江真澄は、東北地方はたいへん豊作だという噂を聞いて1784年(天明4)に信濃(長野県)を発った。しかし翌年に東北に行ってみると悲惨な状態だった。

津軽(青森県)で会った人に真澄が聞いてみると、「われらは馬を食らい、人を食らいて、からき命を助かりつれど、また今年吹きたる風にあたりて、稲穂かがまず(実らないで)、むかしの陪堂(ほいとう。物乞い)となりて侍(はべ)る」と吐露する。

馬や人を食ったのは事実かとたずねると聞くと、「人も食(とう)び侍りしが、耳鼻はいとよく侍りき。馬を搗(つ)きて餅としてけるは、類(たぐい)のううまく侍る」と、人間の耳と鼻、馬は美味だというのである。

こうした難民が、津軽の野には満ち、廃村になった村がいくつもあった。よほどの金持ちならいざしらず、多くの人々が南へ、南へとたどっていった。

天明の大飢饉の原因は、長雨、水害、浅間山の大噴火、なかでも冷害による被害が大きかった。津軽藩では飢饉に対する措置を誤り、藩内の米穀が欠乏し、米価が高騰。売買が止まってしまった。町や村を問わず食物が尽き、餓死者が続出する惨状を呈したのである。