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エンタメ 週刊現代

ソ連のスパイとなったMI6スーパーエリートの「裏切り」

歯車はこうして狂っていった…

世界を震撼させた事件

キム・フィルビー かくも親密な裏切り』は、緊迫した化かし合いから幕が開く。

1963年1月、レバノン・ベイルートのアパートの一室で、男たちが向き合っている。キム・フィルビーとニコラス・エリオット。二人は親友であり、ともにイギリスの情報機関MI6のスパイだ。

キム・フィルビー

エリオットはずっと信じ続けてきた友人の裏切りを明らかにしようと頭を働かせ、フィルビーは優雅にお茶を飲みながら、それを受け流す。紳士的な振る舞いの水面下でせめぎ合う嘘の応酬はもちろん、隣室で盗聴されている。

フィルビーは、1930年代にケンブリッジ大学でソ連の情報機関にスカウトされた「ケンブリッジ・ファイブ」の一人だ。イギリスの上流階級出身のエリートで、いわゆる「人たらし」。

酒を飲むのも人の話を聞くのもうまく、細やかな気配りで老若男女に愛される、そんな理想的な人物だったという。

大学卒業後、英紙「タイムズ」の戦時特派員を経て、MI6にソ連のスパイとして潜入。順調に出世街道を進んだフィルビーは、人脈を活かしてソ連に関するファイルを閲覧し、機密資料を自宅でコピーして、NKVD(スターリンの情報機関)の担当者に渡していた。

ソヴィエト情報作戦の責任者となってから「スタンリー」のコードネームで呼ばれ、彼が漏らし続けた情報によって多くの人が犠牲となった。

だが、ソ連領事館職員の亡命、暗号解読によるケンブリッジスパイ網の綻び、身内の天敵MI5とアメリカのFBIからの執拗な調査で徐々に追い詰められていく。

FBIの工作により、スパイとしてマスコミに追われたときは、自宅で記者会見を開き、世紀の名演で記者たちを虜にする。だが、情緒不安定から次第に酒に飲まれるようになったフィルビーは、意外な人物の発言を起点に、仮面をはがされる。

冒頭のベイルートの攻防の後、フィルビーやエリオット、関係者たちの人生の歯車が狂っていく。

 

疑心暗鬼が支配する世界

このキム・フィルビー事件をモデルにした小説の一つが、グレアム・グリーンの『ヒューマン・ファクター』だ。落ち着いた文体で綴られた物語に「007」のような派手さはない。静かで仄暗い小説には、MI6出身のグリーンだからこそ描けるリアルがある。

ヒューマン・ファクター

英国秘密情報部に勤務するカッスルは、真顔でジョークを言う反面、ウイスキーの瓶が定位置にないだけで不安を覚える性分だ。以前勤務していた南アフリカで出会った黒人女性を妻とし、その妻が産んだ血のつながらない息子と三人で暮らす。

ある日、ソ連への情報漏洩の調査が入る。カッスルと同僚のデイヴィス。二人しかいない職場で、上層部の疑いの目は若いデイヴィスに向く―。

物語の中盤で不意に真実が示され、カッスルが小さな変化と将来に不安を覚える理由が分かる。破滅の影が不気味に忍び寄る第五部と最終の第六部は、疑心暗鬼こそスパイ小説の最高のスパイスであることを示す。

終盤で見せるカッスルと彼の上司との会話は、あの1963年のベイルートでの攻防を彷彿とさせる。MI6時代、作者のグリーンがフィルビーの部下であったという事実が、確かな説得力となっている。