週刊現代

「日本人は自分の頭で考えない」について、真剣に考えてみた

無責任体質にまつわるアレコレ

やたらと多い自画自賛の番組

これまでも数々の日本人論があったが、最近では他国をけなして日本を褒めあげるといった本が人気のようで、大変なベストセラーになっている。テレビでも、「世界中から称賛される日本」といった類の番組が、やたらと目につくような。

いつからこんなに臆面もなく自画自賛する国になったのだろう、と思う一方、考えてみれば戦前も、「日本、よい国、きよい国、世界にひとつの神の国」などといっていた歴史を思い出す。やはりこれが、この国に通底する心性なのだろうか。

阿満利麿『日本精神史――自然宗教の逆襲』は、「日本人とは果たして何者か」という大きな問いに正面から取り組んだ作品だ。

日本精神史

冒頭の一文から、まず引き込まれた。

「一九四五年八月の敗戦を迎えて、当時の知識人たちは、これからの日本はどうあるべきかをめぐって、さまざまに論じあった。その共通点は、日本人が自主的に物事を考えることが苦手な国民であり、付和雷同しがちな傾向があること、なにごともエリートにまかせて、その後についてゆく主体性のない国民だ、という認識であった」

だからこそ、主体性を養うための教育をして、自主独立の精神を養っていくようにしなくてはいけない。それが当時の日本人の反省に基づく結論であったはずだと著者は書く。

ところが、それから70年が経ち、そんな思いはどこへやら。首相夫妻や文科省の副大臣が教育勅語を肯定する発言を、堂々とする世の中となった。

 

主体性とは「自分の頭で考え抜いて、自分の発言や行動に責任をもつ」ことだと著者はいう。では、なぜ日本人は主体性を身に付けることが苦手なのか。その原因として、著者があげるのが日本における「自然宗教(神道やアニミズム)」の存在である。

仏教やキリスト教のような「普遍宗教」が常に、日本由来の自然宗教に飲み込まれてしまう。その結果、日本人の特性として、大勢順応、カリスマ崇拝、事大主義、無責任体制といった性格が、国家神道の普及とともに、より強くなっていったのではないか、と著者は見る。

毎年、敗戦記念日が近づくと各地で慰霊祭が行われるが、なぜ敗戦に至ったかという根本原因の追究はなされない。空襲や原爆投下、引揚げといった被害の面だけが取り上げられ、日本人の加害の部分は直視されない。

戦後、「一億総懺悔」と頭を下げたが、それは一億分の一の懺悔でしかなく、限りなくゼロに等しくはなかったかと著者は指摘する。主体性のなさに起因する、こうした弱点を、どう克服すればいいのか。その答えは日本人ひとりひとりが、考え抜いて出すしかないのだろう。

認知症が社会を変える

生井久美子『ルポ 希望の人びと ここまできた認知症の当事者発信』もまた、私たちが抱える根本問題に気づかせてくれる一冊だ。

ルポ希望の人びと

長寿化時代、私たちは認知症に向かって生きているともいえる。かつては「痴呆症」と呼ばれ、介護する側の視点で捉えられてきた認知症。だが、今、当事者の発信に耳を傾けようという動きが世界中で生まれている。

人間が人間でなくなっていく、人格が崩壊していく、といったこれまでのイメージが覆される事例の数々。当事者の言葉は重く、また心に響く。「私は誰になっていくの?」と認知症になった直後、恐怖に怯えたクリスティーンは次第に、こう確信したという。「私は私になっていく」。