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週刊現代 日本

エリート裁判官たちはこうして自分たちの利権を守った

司法制度改革が骨抜きになるまで

かつて、裁判官の「特権」に、メスを入れようとする動きがあった。その急先鋒となったのは、元最高裁長官。しかし、現役裁判官たちは、強く抵抗を続けた。それだけ、裁判所の「既得権益」は大きいのだ。

元最高裁長官の決意

21世紀の司法が果たすべき役割を議論するための「司法制度改革審議会」は、1999年7月から約2年にわたり開催された。

その報告書をもとに、今日までいくつもの新たな制度が作られてきたが、中でも注目すべきは、最高裁に設置された「裁判官指名諮問委員会」であろう。

この委員会のおかげで、裁判官を採用する際や、10年ごとにその適格性を審査する際、その公正性が担保されることとなった。

ブラックボックス化した審査では、政治的な理由で不採用にしたり、任期を延長しない再任拒否がなされる可能性があるからだ。

実際、過去において最高裁は、任官から10年目の判事補に対し、正当な理由なく再任を拒否し、裁判官の地位を奪ったことがあった。その反省と教訓を生かした制度である。

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当時、任官を拒否する役回りを押しつけられたのが最高裁の人事局長で、その後、第11代最高裁長官となる矢口洪一だった。

自身が作成した裁判官の「再任名簿」にひとりの判事補を登載しなかった。その強いられた決定について、後年、苦しげに語っている。

「今考えると、再任問題では、別のやり方があったかとも思うが、当時としてはせいいっぱいだった。一部で言われている『司法の反動化』という批判は、あたっていないと思う」(『読売新聞』1982年11月23日付)

少なくとも矢口が、最高裁事務総局で、民事局長兼行政局長や人事局長などの要職を歴任していた時代、最高裁は、大蔵省との予算折衝で政府自民党の力を借りていた。

それを目の当たりにした矢口は、以後、神経質なほど政治との距離を保とうとしていたという。

1968年に、経理局の営繕課長として予算折衝にあたった元東京高裁裁判長の石川義夫は、自著『思い出すまま』のなかで、こう述べている。

「川島(正次郎)副総裁以下自民党の親分連中」のところへ、「(事務)総長を始め、総務局長、人事局長、経理局長皆さんが足を棒にしてこの数ヶ月陳情して回った」。おかげで、裁判所予算は「自民党で丸政(自民党が最重要と認めた事項につけるマーク)がついた」。

当時、大蔵省は緊縮財政方針を打ち出していたにもかかわらず、裁判所は満額に近い予算を獲得できたとある。

当然ながら、政府への借り意識が生まれ、「経理局長が、『あれだけ治安対策の連中を使ってこの予算を通したら、後が大変だろうなあ』」と、不安を口にしていたという。

 

その予感が的中するかのように、この翌年、札幌市郊外の長沼町に建設予定だった自衛隊の「長沼ナイキ基地」を巡って、反対する地元住民が行政訴訟を起こしている。

その訴訟において、国側に有利な決定を下すよう札幌地裁の所長が、担当裁判長に書簡を届けるという事件が発生した。独立が保障されている裁判権の行使に不当な干渉をおこなったとして、日本中を巻き込む騒動に発展している。

逆にいえば、それほどまでに最高裁は、政治に気兼ねし、配慮しなければならなかったのである。