手間がかかり、頭を使うことが好き

京都大学での研究の一環で、「不便でよかったこと」を探している。僕はそれを「不便益(ふべんえき)」と名づけ、新しいシステムデザインの指針にしようと目論んでいる。よく「効率だけ見ててもダメだよね」と言われるけれど、どうして「ダメ」なのかを明らかにする試みでもある。

これまで研究していて得られた知見の一つは、「人は不便が好き」ということだ。

ここで「不便」とは、限定的に「手間がかかるか、頭を使わねばならぬこと」としておきたい。そうすると、不便でなければ得られない益がたくさん見つかる。不便を「好き」と思えるポジティブな感情も、益の一つだ。手間をかけさせてもらえる喜び、頭が働く喜びも、益だろう。

逆を考えるとわかりやすい。何もするな、何も考えるな、ただ生きていろと言われたら、それは一種の拷問ではないか。その昔、小学生の息子に「ヒ・マ・ダ、何か面白いコト、ない?」と言われ、車のタイヤ交換を手伝わせたら喜ばれたが、そういうことだ。朝から晩まで何もするコトのない毎日を過ごすのは、辛いだろう。

 

さて、近ごろ「働き方改革」という言葉をよく見聞きする。文化的背景と密に関連して、連綿とつながり形づくられてきた日本式のサラリーマンスタイルを改革しようと言うのだから、これは単純な話ではない。

僕の研究する不便益は、この改革に何か役立つだろうか、と考えてみた。

安直だが、まずは「働くときには頭を使い、手間をかける」ことに、ヒントがありそうだ。頭を使わず、手間もかけないことを「働く」とは言わないだろう。そう考えると、最初に示した「手間をかけ頭を使うこと=不便であること」は、働くことの必要条件だったわけだ。

「余人をもって代えがたい」働き方

ところで、便利を象徴するスローガンの一つに、「いつでも、だれでも、同じように」がある。その対義語である不便のスローガンは、「ある特定の人でなければダメ」とか「余人をもって代えがたい」ということになるだろう。不便益は「余人をもって代えがたい」を指向するのである。

「やっぱりあなたじゃないとね」と言われると、無条件にうれしくなる人は少なくないと思う。日本人には不便、あるいはそこから得られる益が好きな人が多いようだ。

このことを、働き方改革と結びつけて考えてみよう。

いまの世の中で「あの人がいなくても、結局大丈夫だったじゃん」と言われることは、何を意味するだろうか。それはおそらく、「君の代わりはいくらでもいるんだよ」と言われることとほぼ同義だ。

そういう状態で働いている人は、ほかの人に代えられては困るから、賃金が安くても文句を言えなくなる。それでも収入を増やしたいなら、長時間働くしかない。低収入で暮らすことを受け入れるという選択肢もあるだろう。それを実践している人を、テレビや雑誌などでよく見かける。

サラリーマンの残業風景過労死の言葉を生み出した、典型的な日本のサラリーマンの残業風景 Photo by The LIFE Images Collection/Getty Images

しかし実際のところ、そのような生き方を選べるのは稀有なことであり、社会が許してくれない場合が多い。そうなると、やはり賃金が安くても文句を言わずに働くか、長時間働いて収入を増やすしかない。過労死や自殺が絶えないことは、そういう現実の行き着くところなのだろう。

もちろん、そんな社会は変えなくてはいけない。

すでに書いたように、不便益は「余人をもって代えがたい」を指向する。「あの人いなくても、結局大丈夫だったじゃん」と言われるのは、(日本人に多い)不便益を重視する人にとってはガマンのならない状態である。ただ、働き方改革のためには、それが「君の代わりはいくらでもいるんだよ」を意味することさえなければいいのだ。

それはつまりこういうことだ。

今朝読んだ新聞に、江戸時代の名主(なぬし)の仕事について書かれていた。名主の日記には、ワシの代わりは居ないとばかりに、風邪を患っても無理して領主へ年貢を届けに行こうとするくだりがあったそうだ。

立派なことではあるが、本当にそれしか選択肢はなかったのか。病気の本人の代わりに年貢を納めに行く人がほかにいて、なおかつ「名主はあなたしかいない」と言われるのが理想ではないのか。