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日本の歴史を変えたあの「豪商たち」の子孫はいま

『直虎』に出てくる瀬戸方久の末裔も登場!

豊臣秀吉、徳川家康、坂本龍馬……蓄えたカネを力に、彼ら歴史上の英雄と渡り合った男たちがいた。そんな「豪商」の子孫はさぞや優雅な暮らしでは?意外な告白にきっと驚くはずだ。

家康の命を救った男

放送中の大河ドラマ『おんな城主 直虎』。徳川家康の四天王・井伊直政を育てた女領主、井伊直虎(柴咲コウ)の奮闘を描いているが、劇中でひときわ個性を放っているのが、井伊家に出入りする豪商、瀬戸方久だ。

ムロツヨシ演じる方久は、自らを「銭の犬」と言い放ち、いち早く目をつけた木綿の原料となる綿栽培を提案したり、当時の最新技術である種子島銃を井伊領内に持ち込んだりする。

そんな方久の子孫が、現在も浜松市に在住している中村洋一氏だ。

「大河ドラマでの瀬戸方久は、見るからに目端の利いた商人のキャラクターですが、実際の方久は、新田喜斎という武将でした。

喜斎は一時期、副業として商人をしていた時期があり、その時に瀬戸方久と名乗っていたと言われています。井伊次郎法師(直虎)から瀬戸村の地を分け与えられて管理し、政商として塩の販売を行ったり、運河を作り、供養の三重塔を建てたりもしていました。

その後、紆余曲折を経て隠棲していた喜斎は、江戸幕府が開かれて間もない慶長11(1606)年、凶作で困窮した農民たちのために年貢を軽減してほしいと代官に直訴状を書き、処刑されてしまうんです。

当初は幕府を恐れ、どこの寺も葬儀を行うことを躊躇っていましたが、法要を執り行ってくれたのが、ドラマにも出てくる龍潭寺でした。

その後、一族によって喜斎を祀る小さな神社が建てられました。我が家は喜斎の長女・房が嫁いだ中村平三郎の子孫で、地元で先祖代々農業を営んでいます。

10月15日になると神社の前で、中村家一門で喜斎の慰霊祭を行っており、これは現在も連綿と続いています」

ドラマに出てくる瀬戸方久を見て、自分がイメージしていた先祖と大きくかけ離れている、と驚いたという中村さん。あくまでも物語だと納得しつつ、家族中で見ているという。

徳川に楯突いた瀬戸方久とは逆に、徳川家康の命を救った人物として名を留めているのが、京都の豪商だった茶屋四郎次郎だ。

「本能寺の変」で織田信長が倒れた時、家康は少人数で堺見物の真っ最中。絶体絶命の家康が伊賀を越えて領地・岡崎まで脱出する間、土民に襲われないよう、四郎次郎が小判をばらまきながら護衛したと伝わっている。

昨年の大河ドラマ『真田丸』での、家康脱出の場面を記憶している人もいるだろう(残念ながら、四郎次郎は登場しなかったが)。

 

すっかり落ちぶれた

家康の命を救った四郎次郎は、江戸幕府が誕生した後、徳川家の呉服御用を一手に引き受け繁栄した。しかし……。

名古屋在住の茶屋四郎次郎17代目子孫・中島恒雄氏はこう語る。

「茶屋四郎次郎清延の『茶屋』は屋号で、姓は中島といいます。中島家は元々、武士の家柄でしたが、徳川家の庇護を受けたことで江戸時代には呉服商と、今で言う銀行業の両替商を営んでいました。

ところが、江戸時代中期から武士が衰退して貧乏になっていきます。御用商人である茶屋は、大名貸しといって各地の大名家や武士にお金を貸していましたが、彼らに貸しても、お金が返ってこなくなった。武士が貧乏になっていくと同時に、茶屋家も苦しくなっていったのです。

その後、幕府が倒れて明治維新になると、徳川の威信が失墜しました。同じく江戸時代に豪商と呼ばれた松坂屋さん、三越さんは、武士だけでなく庶民を相手に商売をやっていたので、徳川家と共に傾くことはなかったのですが、茶屋家は徳川家との縁が深すぎ、共倒れとなったんです」

権力者と近すぎたことがあだとなった茶屋家。その子孫たちは、明治維新後、苦労を重ねたという。中島氏が続ける。

「茶屋は本家の他に、清延の三男・新四郎が創設した名古屋の尾州茶屋家と、清延の四男の家系にあたる紀州茶屋家があり、江戸時代はそれぞれ徳川家に仕えて茶屋御三家といわれました。

我が家は尾州茶屋家の子孫ですが、紀州茶屋家はもう途絶えて久しく、京都の本家も、数年前にご当主が亡くなり途絶えてしまいました。

本家の最後のご当主は、最後は府営住宅に住んでいましたね。生前、彼は『豪商といわれた茶屋の子孫でも、一旦下層に落ちぶれてしまうと、上層にあがれない』と嘆いていました。

祭祀を嗣ぐためには、お寺に対しても、豪商・茶屋の家格となればそれなりの額を出す必要がある。普通のサラリーマンではとても無理です。

最後のご当主には他家に嫁いだ娘さんがおられたのですが『お父さんがプライドをもって茶屋の子孫だと主張するのはいいけれど、自分たち一家はそこから離れたい』と主張していたそうです。だから、本家の茶屋家は途絶えてしまった。

うちの尾州茶屋家も往時の資産にはとても及びませんが、私の代で少しは資産を作ったので、代々受け継いでいってほしいと思っています」