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文学

国民的詩人・大岡信の超早熟っぷりにあらためて驚嘆する

小林秀雄の引力圏から遠く離れて

「折々のうた」で知られた国民的詩人・大岡信(1931-2017)。彼の評論活動は、22歳の時に書かれた『現代詩試論』から始まった。そのなかで大岡は、ある「確信」を武器に、当時の詩壇の大御所たちを叱り飛ばしているのだ。若き大岡信の射程はどこまでの広がりをもっていたのか。文芸評論家・三浦雅士が読み解く。

国民的詩人の死

2017年4月5日、大岡信が永眠した。

いまこれを書いているのが4月29日である。まだ、ひと月も経っていない。

亡くなったその日、夜7時のNHKニュースの冒頭で、死が報じられた。私は、知らせを受けてお宅に駆けつけていたので、遺族の方々とともにその映像を見守ることになった。

茫然と、ああ、時が過ぎてゆく、時が過ぎてゆくと、思っていた。ニュースは間もなく北朝鮮の核ミサイルをめぐる報道に変わった。

詩人の死が、夜7時のNHKニュースの冒頭で報じられるということは、異例のことである。それも、適切な映像を選んだ、きわめて丁寧な報道の仕方だった。短時間のうちによくこれだけのニュースにまとめられたものだと感心していた。

そして、その映像を見ながら、大岡信は国民的な詩人だったのだ、と改めて感じていた。

後に、小林秀雄が亡くなったときでさえトップ・ニュースではなかったと知らされた。そして、そのことで多少の批判があったということを知らされた。そうだったのかと思った。その話を聞きながら、「だけど、小林秀雄は『折々のうた』を書いていないではないか」と、ひそかに思っていた。

私が中学生の頃は、小林秀雄はとても有名だったけれど、中原中也はそれほどではなかった。「傍役の詩人・中原中也」という批評さえあった。中原は、小林を中心とする文学界グループの、ちょっとした端役にすぎなかったというのである。

下品な批評だとは思ったが、そう思う人間がいても必ずしも奇異だとは思わなかった。それほど小林の名声は、当時、高かったのである。まさに文壇を圧していた。

それから半世紀、いまでは中原のほうが小林よりはるかに知られているといっていい。中原の詩は、中学生や高校生でも親しめるからだろう。小林のほうは、よほどの文学少年でもなければ、いまでは手に取らないだろう。彼らには難しいのだ。

そういう風潮が良いか悪いかはおいて、詩は訴えかける力が、批評や小説よりも強いということは知っておくべきだと思う。

『現代詩試論』のなかで、大岡は再三書いている、詩と読者の関係は二人称的だが、小説は三人称的なのだ、と。詩と読者の関係は、愛や信仰の場と同じで、直接的なのだ、と。

だが、そのとき私が考えていたのは、それとはまた別のことである。

 

驚くべき早熟

『現代詩試論』と『詩人の設計図』が、「講談社文芸文庫」の一冊に加えられることは、死の数ヵ月前にすでに決まっていた。

私は、大岡の詩と批評を、繰り返し読んできた。読んできてはいたが、集中的に読み直し始めたのはここ5、6年のことである。読み直して圧倒されることが重なった。圧倒されて、これまで大岡は真正面から論じられることがなかったのだと、痛感した。

大岡信は重要な詩人であり批評家である、と、考えてはいたが、少年時代から晩年までの著作を通読して、自分がそれまで考えてきた以上に、巨大であることを思い知らされたのである。

読み返して、以前、気づいていなかったことに気づき、ほとほと感心してしまうことが続いた。

だが、『現代詩試論』と『詩人の設計図』はまた格別である。

『現代詩試論』の表題作が執筆されたのは著者22歳のときである。『詩人の設計図』の「エリュアール論」は21歳のときである。刊行も、『現代詩試論』が1955年で24歳、『詩人の設計図』が1958年で27歳。その間に詩集『記憶と現在』が刊行されていて、それが1956年で25歳。

大岡信『現代詩試論』を書いた頃の大岡信。1952年撮影

ランボー以降、あるいは中原以降、詩人は早熟と相場が決まっているが、それにしても、若き大岡の評価を決定したのは批評であって、その批評たるや、率直に述べてほとんど老成していると形容したくなるほど、完成されているのだ。しかも、文体はあくまでも若々しく新鮮なのである。詩壇が驚倒したのも無理はない。

大岡はほんとうは小林を超えているのではないか。

NHKニュースでの取り上げられ方で、小林が亡くなったときと対比され批判されたと聞いた後に、思い浮かんだのはそのことだった。NHKの担当者たちは無意識のうちにそれを表現してしまったのではないか、と。