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今のうちに言っておきたい、東京五輪への「大きな違和感」

マスコミは加計学園で持ちきりだが…

東京五輪が軽視するもの

世間は加計学園についての話題で持ちきりである。今回は、そんな中でいささかぼやっとしているのだが、2020年に開催予定の東京オリンピックに向けての違和感を書かせていただく。

あまり直前になると批判的なことが書きにくくなるので、今のうちに言葉にしておきたい。

私たちの毎日の生活のなかで、つくづく「喪」の時間が失われていることを感じる。

言うまでもなく「喪」とは、身近な人や重要な人が亡くなった時に、その人のことを悼み、悲しみなどの感情を味わうために、通常の社会的な活動を離れて過ごす時間のことである。

 

葬式は本来、主に故人の家族が「喪」の作業を円滑に進めるために行われた。

しかし現代社会において「葬式」は、それが本来持っていた宗教的、あるいは呪術的、あるいはスピリチュアルな力を失い、世間から後ろ指を指されないようにこなすべきルーティンワークとなっている。

葬式中は忙しいばかりで、それが終わってからやっと悲しい等の感情を持つことができたと語る人が少なくない。

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なぜ「喪」の時間の喪失が問題なのかという問いに功利的に答えるならば、「感情の劣化が起きるから」となる。

研究によれば、縄文の頃から私たちの父祖は死者を埋葬する営みを行ってきたらしい。「喪」とは、人間の文化のはじまりに位置するものなのだろう。それを軽視することの代償は大きい。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙 12章15節)

私がなぜ2020年の東京オリンピックに違和感を持つのか。

その理由を端的に述べるのならば、それが2011年に起きた東日本大震災の死者たち、そして広範な国土の損失、失われた信用や自信、事故対応のために投入された国富といった重要なことについての「喪」の時間を妨げる質が強いからだ、と答えたい。