「心」のかたち

「心が折れる」とはそれにしても物騒な言葉である。小指1本折れてさえ痛くてたまらないのに、人間のおそらくはいちばん大切な部分がぽっきりと折れてしまったらもう生きていけないのではないだろうか。

しかし、そもそも「心」って折れるような形状をしているのだろうか。

「心が折れる」という言い方は毎日のように耳にするが、今のような意味で使われるようになったのはそれほど昔のことではない。1987年に神取忍という女子プロレスラーが、「あの試合のとき、考えていたことは勝つことじゃないもん。相手の心を折ることだったもん。骨でも、肉でもない、心を折ることを考えてた」、と、対ジャッキー佐藤戦を振り返ったのが初出だという。

そこから主にスポーツの分野で用いられるようになり、30年かけてじわじわと広がってきたのだろう。特にここ10年くらいで若者の間では日常語となった気がする。

しかし、神取がはじめに使ったような意味で「心が折れ」てしまうなら、再起不能の重体に陥りそうなものだが、若者の心は、聞く限りしょっちゅう折れている。たぶん、よっぽど細長い「心」で、はじっこの方がちょこっとずつ折れているに違いない。

世代の問題なのだろうか、それでもわかりづらいのは、「心」ってもっと丸くて柔らかいようなイメージがあるからだ。「張り裂ける」とか「潰れる」とか、だんだん固くなって「壊れる」ならまだしも、「折れる」ほど細くはないなあ、と思えてならない。

ことはたんなる言葉遣いの問題にとどまらない。「折れる」という言い方に違和感をおぼえないという人は、それだけほんとうに「心」が細っているのだ。

「心が折れた」と口にすることで、自分の心のイメージはより細いものになっていき、そうなるとますます「心が折れる」ことも多くなる。

だから逆に、「心は丸い」と自己暗示をかけてみよう。心は丸くて柔らかい、だから多少のものは跳ね返せる、と。失敗や悪口を小石のようにイメージして、自分の丸い心にぶつかっても跳ね返されるところを想像してみよう。これが一つめのコツだ。

他愛ないと思うかもしれないが、ガンの治療法でも、自分の細胞からガンが消えていくところを想像する「イメージ療法」というものがあるくらいで、イメージの力は大きい。

「心は折れない。心は丸くて柔らかい」と唱えてみよう。