左・エリック・クー監督 右・辰巳ヨシヒロ氏 〔PHOTO〕gettyimages
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「劇画」で革命を起こした男・辰巳ヨシヒロの自伝が面白い!

海外で高く評価される漫画家

手塚治虫と座談会をした中学生

『増補版TATSUMI』(青林工藝社/2015年)というコミックス短編集に収録された、辰巳ヨシヒロ自身による年譜では、彼は1935年に大阪市の天王寺区に生まれた。

1944年に奈良県吉野山に集団疎開し、祖父に引き取られた。1946年に豊中市蛍ヶ池に一家で移転し、ここで太平洋戦争の敗戦を迎えた。

1947年、中学生だった頃、手塚治虫の漫画を初めて読み、夢中になるという体験をした。その体験は、自分でも漫画を描く、という方向へ辰巳ヨシヒロを連れ出した。あらゆる少年雑誌に彼は漫画の投稿を始めた。

当時の少年雑誌はうしろのほうのページに、読者から投稿された漫画で採用になったものが掲載されていた。そのページの様子を僕はかろうじて記憶している。

1949年、まだ中学生だった辰巳は、全国の漫画好きの少年たちに呼びかけ、子供漫画研究会(KMK)、という組織を作り、手書きの機関誌を発行した。そして1950年、毎日中学生新聞に投稿した漫画がきっかけとなり、手塚治虫との座談会へと進展した。中学生たち三人と手塚治虫との座談会はその新聞に掲載された。

手塚治虫の自宅は辰巳ヨシヒロの自宅からさほど遠くなかった。阪急電車で30分ほどだ。辰巳は手塚を訪問し、いろんなことを話し合い、長編を描くように、と手塚から勧められた。

ここで言う長編とは、かたちとしては一冊の単行本であり、内容としては、ひとつにつながった波瀾万丈の物語が、読者を引っぱり込んで痛快に展開していく、ということだった。

 

1951年の辰巳少年は、入選すれば賞金が手に入る一般の月刊雑誌にかたっぱしから漫画を投稿し、学費を稼ぐまでになっていた。

描きあげたおそらく最初の長編漫画を、好きだった漫画家の大城のぼるに送った。『愉快な漂流記』という題名のこの長編を元にして、描きなおして単行本にする、という返信を大城から受け取り、おおいに自信をつけた、ということだ。

さらに、辰巳は大城に続編である『子供島』という長編を送った。この作品が、『よいまんが一年生 こどもじま』の題名で、鶴書房から刊行された。1953年の辰巳は、この鶴書房に長編漫画をひとつ描いて提供している。

豊中の高校を卒業した辰巳は大学へは進学しなかった。『怪盗紳士』という長編が『七つの顔』の題名で、日の丸文庫から刊行された。

1956年の『黒い吹雪』をへて、1957年の辰巳は、さいとう・たかを、そして松本正彦の三人で上京し、国分寺のことぶき荘というアパートに住み、若い漫画家としての日々を送ることになり、作品には劇画という言葉を冠した。

劇画という言葉を最初に作って使用したのは辰巳ヨシヒロだった、と言われている。