写真/ホンゴユウジ
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努力しても報われない人生はザラにある~馳星周「暗黒小説」のカタルシス

理想と現実の断絶に絶望するな

1998年の傑作『夜光虫』の後日譚を描いた『暗手』は、今年4月に刊行されると、作家・書評家から多くの支持を集め、その評判はいまも広がっている。

『不夜城』以来、ノワール小説の旗手として活躍してきた馳星周氏。デビューから20年を経て、より洗練された暗黒世界を紡ぎ出すその作家性に、ミステリ書評家の霜月蒼氏が迫った。

私たちの心の中の暗い部分

物語とは何か? と問われたら、「日常では体験できないことを体験すること」と私は答える。

遊園地のライドが非日常の身体感覚を実体験することならば、物語は、非日常の心理や感情を脳内体験するライドである。日々の生活では得られない心のセンセーションを起こすエクスペリエンスが、物語というものの最大の効能なのだ。

スリルでもサスペンスでもサプライズでもいい。ビッグビジネスの成功体験でもいいし大恋愛の成就でもいい。平凡な感情をかけがえのないスペシャルなものとして謳ってもいい。「等身大life size」の体験でなく、「等身大よりデカい larger than life」体験。もちろんネガティヴなことだっていいのだ――恐怖、悪意、欲望、悪事。

もちろん私たちのほとんどは犯罪に手を染めないし、真っ当に生きている。けれども「正しく生きたい」というのだけが私たちの心ではない。

嫉妬することもあるし、身の丈を超えた欲望に身を焦がすこともあれば、理不尽な世の中を破壊したくなることもある。それに無理やり蓋をすると心に無理がくる。そういう暗い部分だって他ならぬ私たちの一部だからである。そこにも餌をあげる必要があるのだ。

そこで馳星周である。

写真/ホンゴユウジ

最新作『暗手』でデビュー20年を迎えた馳星周は、私たちの心の中の暗い部分を見つめ、私たちの世界の理不尽な部分を見つめつづけてきた。

正しく生きることへの重圧に耐えかねて軋む私たちの心に最高に効く小説を、馳星周はさまざまなかたちで世に送り出しつづけてきたのだ。

 

刊行されたばかりの『暗手』もまた、欲望と悪をささやく自分の暗い部分と、正しくあろうとする自分とのあいだで引き裂かれ、恐怖にまみれながら出口のない境遇に追いつめられてゆく男を描きつくす圧巻の作品となっている。

主人公はイタリアで殺人以外のあらゆる犯罪を請け負う日本人・加倉。

もともとは日本から台湾に渡ったプロ野球選手だったが、台湾で八百長に加担、マフィアにからめとられ、ついには台湾で殺し屋として際限のない殺人を犯してきた。やがて名前と顔を変えてヨーロッパに逃亡、イタリアでサッカーの八百長を差配するようになった男だ。

台湾での経験は、加倉からすべての喜びを奪っている。味覚もない。性的不能にも陥っている。だから生活にうるおいは何もなく、ただ裏社会から回ってくる仕事をこなし、人をだまし、破滅させ、対価をもらう生活をつづけている。それでも自殺する勇気はなく、誰かが自分を殺してくれることをひそかに待ち望んでいるのみだ。

そんな加倉のもとに日本人サッカー選手・大森を八百長に引き込めという依頼が舞い込んだ。いつものように相手の信頼を巧みに得たうえで大森を陥れようとするが、大森の真摯な思いは台湾時代の自分を思い起こさせ、大森の姉が加倉に「生きること」への希望を呼び起こしてしまう……。

物語を語るのは加倉の一人称「おれ」。だから加倉の苦悩が濃密に描かれる。大森姉弟のために犯罪組織を裏切るべきか。今さら自分が誰かとの愛を育むことなどできるのか。

台湾からきた凄腕の殺し屋に自分の過去が露見するかもしれない。ばれれば殺される。裏切っても殺される。いや、殺されるべきなのか? 自分はそれを望んでいるのではなかったか?