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これだけ深刻な人手不足なのに、いつまでも賃金が上がらない理由

日本はこの構造的問題から抜け出せるか
玄田 有史 プロフィール

賃下げを行わなかった企業ほど賃上げに消極的

16の論文のうち、4本が共通したのは、先に述べた下方硬直と上方硬直が、実は密接にかかわっているという指摘だ。

経済学では、価格は市場の需要と供給によって通常決まると習う。需要が増えて商品が足りなくなりそうだと価格が上がり、反対に供給が増えて余り気味になると価格は下がる。労働市場の需要と供給で決まる賃金も、同じ原理で増減すると考えられてきた。

しかし、食材や貴金属などの商品と違って、労働という商品は、人間の感情によっても左右される。

行動経済学という人間の行動を経済学的に考察する最近の研究からは、労働者は過去に支払われた水準より賃金が下がることを、とても嫌がることが指摘されてきた。

だから賃金が下がることには抵抗もするし、実際下がってしまうと、とたんにやる気がなくなってしまう。反対に、賃金が下がりさえしなければ、上がることには、それほどこだわらないという性格の人が、どうも多いようなのだ。

 

賃金が下がると労働生産性も下がることを経験的に知っている企業は、どのような行動に出るのか。

人手不足だからということで賃金を大幅に上げたとする。その後に思いがけず不況になると、賃金を下げないと人件費がかさみ、経営が圧迫される。だが賃金を下げてしまうと労働者はやる気をなくすため、下げるにも下げられない事態に陥ってしまう。

だから、賃金が下げられない硬直性があると、今が人手不足でも将来また不況になることをおそれる企業ほど、おいそれとは賃金を上げられないのだ。働き手も、給料が下がりさえしなければよいので、多少の不平はあっても、それほど賃金が上がることには執着しない。

実際、企業データを用いた分析からは、過去に月給の賃下げを行わなかった企業ほど、今回も賃上げをしない傾向がみられると指摘されている。賃下げが出来ない場合、企業は、将来の賃金調整の余地を残すため賃上げに慎重なることも、理論的な分析から主張された。

働き手は月給が下がることはかなり嫌うのだが、ボーナスの増減はそうでもないようだ。人手が足りなくなったり、業務量が増えたときには、企業は月給アップに代わってボーナスをたくさん支払う。

反対に将来人手が余ったり、仕事が暇になるようだったら、今度は柔軟にボーナスを削減して我慢してもらう。そんなメリハリの効いた特別賞与の活用を、これからはもっと考えたほうがよいのかもしれない。

高齢化が落とす暗い影

加えて多かったのは、過去にない「高齢化」の進行が、賃金の動向にも影を落としているという指摘だった。

年功的に上がる賃金や、生え抜きの長期雇用の傾向は、以前ほどには日本の企業でみられなくなったという声も多い。

この本のなかでも、年々増え続ける積み上げ型の賃金制度を企業は採用しなくなり、かわりに一定の範囲内で増減するゾーン型の賃金制度に変更する場合がみられるようになったという指摘があった。

制度の変更は、新しく採用された人々に対して入社と同時に適用されることも多いが、既存の制度で賃金が決まっていた人々は、しばしば適用対象外になったりもする。

おおざっぱにいえば、バブル入社世代までは、日本的雇用システムとよばれた年功賃金や終身雇用の恩恵にあずかることも多かった。