殺害現場の多摩川沿いにて photo by iStock
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「川崎国」にしか居場所が見つけられず、生きたまま首を切られた少年
川崎市中1男子生徒殺害事件を振り返る

川崎の町をウロウロ歩き回っていた

川崎の中学校に通う13歳の少年R君が、派遣会社に勤める18歳の少年Aとその遊び仲間の17歳の少年2人によって川崎区港町の多摩川河川敷で殺された通称〈川崎市中1男子生徒殺害事件〉は、事件発生から2年以上経過した今でも、僕の心に引っかかったままになっている事件です。(事件の詳しいことはウィキペディア等で調べてください)

殺害現場に備えられた花束と手紙 photo by gettyimages

もう50年も前の話になりますが、僕は高校を卒業すると同時に(大阪府)枚方市にあったステンレス工場に就職しました。岡山の山奥で育ったこともあって、工場は近代の象徴として僕の中で輝いていました。ステンレスという言葉の響きにも、近代っぽさを感じていたと思います。

ところが工場の中は、僕が想像していたような輝いた場所ではありませんでした。僕は3ヵ月でその工場を辞め、わずかな手荷物と布団を背負って川崎にやってきました。父親が出稼ぎで川崎に来ていたからです。

父親は、中原区上平間にある6畳1間のボロアパートに1人で住んでいました。そのアパートに転がり込み、父親が働いていた三菱重工川崎自動車製作所に就職しました。

いつもグチばかり言っている父親だったので、狭い6畳間に一緒にいると気が滅入ってしまい、工場が終わってもアパートに帰る気になれず、川崎の町によく遊びに行っていました。

といっても、お金がないので町をウロウロ歩き回っていただけで、せいぜい土曜日のオールナイトのヤクザ映画を観るぐらいでした。まだ週休2日制になるだいぶ前の頃で、土曜日の映画館はいつも大勢のお客さんが溢れていて、映画館にいるときだけは寂しさから逃れられることができました。

ときどき渋谷や新宿にも遊びに行っていましたが、田舎者のコンプレックスからか、駅前のロータリーに競馬新聞が舞っている汚くて殺伐とした川崎の町の方が、妙に安心できるのでした。

 

被害者も加害者も居場所がない

殺されたR君は、2013年に島根県西ノ島町から母親と川崎にやってきます。2014年の4月から川崎市立T中学校に通うようになり、バスケットボール部に入って熱心に練習する明るい少年だったそうです。

ところが、夏頃から部活に参加しなくなります。これは僕の想像ですが、イジメか何かがあったのではないかと思います。そして12月から主犯格の少年Aとつき合うようになり、翌年の1月から学校に行かなくなってしまいました。

主犯格の少年Aについては、いつも年下の自分より弱い連中を引き連れてゲーセンなどで遊んでいた、酒を飲んで酔っ払うと暴れ出して手がつけられなかった、鉄パイプで人を殴って鑑別所に送られたことがある、といった証言がマスコミで報道されています。

R君殺害現場の多摩川河川敷は、少年Aやそのグループが中学時代から溜まり場にしていた場所だったそうです。