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ライフ
近頃「白馬のお姫様」を待つ男子が急増している件〜恋しない若者たち
どうやって彼らと打ち解ければ良いのか

予言者漱石

昨年が歿後100年、今年で生誕150年を迎える夏目漱石のデビュー作『吾輩は猫である』には、現在を見越したかのような一つの予言がある。曰く、将来、結婚はなくなる。

法制度としての結婚が消滅して自由恋愛ばかりになる、というのではない。むしろ人が恋愛しなくなる、ゆえにその延長線上の結婚もなくなる、というのだ。

まさしくそれをして「草食化」とか「絶食化」と呼ぶ現代の風潮は、実は100年以上も前に、一人の作家によって予見されていたのだ。

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これはたんに滑稽小説としての根拠なき夢想ではなかった。漱石は、恋愛しない未来人の心の中に、行き過ぎた個人主義を見ていたのである。これはおそらく正しいし、ことは恋愛にかぎらず、現在の若者たちを捉えるうえでの最も重要な鍵だとさえ言える。

ただし、「草食」「絶食」が「恋に興味関心が向かない」ということを意味しているのなら、それは漱石が「恋愛しなくなる」と言ったのとは少しニュアンスが異なる。

漱石の言わんとしたのは、恋に全く興味が持たれなくなる時代が来る、ということではなかった。異性に興味がないわけではないが、相手よりも自分の方を重視する傾向が強まれば、恋愛というものが不可能になる、と言ったのだ。

自分の個性ばかりを大事にしすぎると、それを相手に伝えようとしても、互いにわかりあえなくなる。「人と違う自分」を突き詰めれば、当然行き着く先は他人の理解を全く越えた存在になる。

この傾向はたしかにつづいている。「みんな違って、みんないい」、という〈個性崇拝〉は、100年以上をかけて静かに、しかししっかりとわれわれの心に根を下ろしてきた。「ダイバーシティ」ということばで表される個性崇拝を咎めだてすることはもはやできまい。

その流れに掉さしながらも、なんとか他人との繋がり、とりわけ若者たちとの間に世代を超えた紐帯を結ぼうとすれば、それなりに努力や工夫が必要だろう。

 

「今どきの若者は……」という嘆き節はエジプト中王朝の碑文にも見られるとは、柳田國男の報告するところであるし(『木綿以前のこと』)、逆に、遺跡には残ってなくとも、おそらくこれまでのすべての若者たちが「だから年寄りは……」と、心の中で呪詛してきたことだろう。

だとすればここで両者の間に横たわる深くて暗い河に橋を架けるのは、年長の側からであるべきだろう。かつては若者だったわれわれは、一応両岸の事情を知っているはずだから。

ただ、架橋が必ずしもうまくいかないとすれば、それは自分自身の「かつての若者」像を今にそのままあてはめてしまうからだ。「俺の若い頃は……」は溝を深くするばかりだ。もはやかつて見た対岸の風景は一変したと考えた方がよい。

かつて肉食動物が跋扈していた向う岸には今や草食動物しかいない。若者が大きく変わったのは恋をしないということにおいてだ。そこを手がかりに、どこにどういう橋を架ければいいのか、傾向と対策を考えてみよう。