文学 建築

文学と建築のあいだ 〜なぜまったく違うジャンルなのに響き合うのか

『建築文学傑作選』刊行記念特別対談
青木 淳, 平出 隆

グランドキャニオンと大仏の違い

青木:先ほどの質問の答えになっているとは思えませんが、決定するっていうのは二つタイプがあるんですよ。

ひとつは全部ごちゃごちゃな状態になっていて、それが1点に収束する瞬間をつかまえるっていう意味の決定。

さっき言ったようにいろんな視点から複線的に考える。たとえば構造的合理性とか、もちろん経済的合理性とか、あるいは美しいかどうか、何か新しいものが付け加えられているかどうかとか。ものを作るときの基準は無限にあって、こっちを立てればあっち立たずみたいなことが建築においてはしょっちゅうだから、全部宙吊りにしてずーっとやってると、あるとき一瞬、全部がオッケーと思えるときがあったとすれば、完全にそれで決まるんです。

ただ僕の精神がそれには耐えられないんですよ。だから変更する。取りあえず決めて、またそれをいじり直す。だから終わらないんですよね。

平出:解説の中で、坂口安吾の「文学のふるさと」というエッセイを引用して、安吾の「救いがないということ、それ自体が、唯一の救い」という言葉を根拠として、人を忖度しない無根拠なルールで青森県立美術館を設計したと書かれていました。ここはとても面白く魅力的です。

人を忖度しない無根拠なルールを投入する、それは安吾がいうように、人間の存在の根拠には人を忖度しない即物的なものがある。だからむしろ、忖度しないということが決定の根拠になるということですよね。

これは青木さんの建築思想の根本ではないでしょうか。

青木:そうです。人間が手を広げて円形の中に立っているレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な絵がありますね。人間自体が宇宙そのものであるという。いろんな読み取り方できる絵だけど、建築というのは人間に対応してるものであるという言い方もできると思うんです。

分かりやすい言葉で言えば「ヒューマン・スケール」という概念があるんです。建築の場合、ヒューマン・スケールがないと言われることは否定に近い。「この建築はヒューマン・スケールを越えてますね」っていうのはたいてい悪い意味で言う。

だけど僕、よくヒューマン・スケールが狂ってるって言われるんです。

平出:ヒューマン・スケールはあるけれど、それが狂っていると?

 

青木:自分ではこのスケールが正しいと思って選んでいるんですが。僕はどうも体にぴったりと合ったものを逆に押しつけがましい、自由が奪われてると感じてしまうようなんです。逆にほっといてくれるような、全く無関係にできてるものを、いいなあ、と感じるんですよね。

たとえば奈良の東大寺の大仏を見ると、ものすごく巨大だと思いますよね。でも、アリゾナのグランドキャニオンとか、そういう雄大な景観に出あったら、大きいと思う以前に自分が小さいって思うでしょう?

それを見て大きいと思うか、自分が小さいと思うか。

自分が小さいと思えるってことは 、いいことだと思うんです。でも大きく見えるっていうのは、自分が基準だから大きく見えるわけで。自分は基準じゃないという感覚をもたらしてくれる大きいものっていうのは、魅力的だなと思います。

グランドキャニオンと大仏の違いを考えると、大仏は大きく見せようと思って造られてる。グランドキャニオンは別に大きく見せようとしたわけじゃなくて、神様がコツコツと、あるいはパッとつくった。人間のことを考えずにつくるとああなるわけです。

安吾は小菅の刑務所、月島のドライアイス工場など工業的、工場的なもの、人間がどう思うかを考えずにつくった空間に懐かしさを感じると書いていて、これ、本当に分かるなと思いました。