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憲法9条の「本当の意味」をそろそろ直視しませんか?

解釈タブーとロマン主義を超えて

憲法をめぐる閉塞感の正体

今日、70周年を迎える日本国憲法は、これまで一字一句変更が施されていない、世界史でも稀な超硬性憲法である。そのこと自体は、良いことでも、悪いことでもない。

厄介なのは、70年間の間に、根拠不明であったり、いたずらに複雑であったりする解釈が、積み重なってしまっていることだ。

超硬性憲法の下で、政府の関係者が国会で昔何かを言ったという類の話や、偉い憲法学者がよく売れている基本書で何かを言ったという類の話が、重要性も判然としないまま、漫然と蓄積されている。

今日の憲法をめぐる閉塞感は、憲法学が、国の仕組みを論じるダイナミックなものではなくなり、ただ細部の記録に走る訓詁学に成り下がってしまっていることだろう。

しかも法学の世界は、〇〇先生還暦論文集編集者やら、〇〇先生葬儀委員長やらが、重要な世界のようだ。憲法学者でいる限り、自由な言論を行うのは、簡単ではないだろう。

ただ憲法学者ではない私は、今一度、憲法典のテクストに素直に立ち戻ることが必要であるように思っている。

 

そして解釈にあたっては、学界の動向分析を優先させるのではなく、むしろ憲法典それ自体に内在する原則や目的を重視し、さらには憲法を取り巻く現実の政治環境を加味していくことが、正攻法であるように思っている。

国際政治学者である私にとって最大の関心事は、日本国憲法が謳う国際協調主義の行方である。

周知のように、憲法前文は、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と述べる。憲法の背景にある、重大な決意である。

しかし残念ながら、憲法学の書物で、「名誉ある地位」をどうやって占めるかという問題関心に出会ったことがない。

何かあるとすれば、「憲法9条は世界最先端の素晴らしい条項だ」ということくらいであろう。うっかりすると、「うちの国の憲法9条はすごいよ」といった自慢話をして、「名誉ある地位」を占めよう、ということになりかねない。

憲法が求めているのは、そういう独善的な名誉だろうか。

もう少し人並みのこと――たとえば国連PKOに粛々と貢献するといったこと――を通じて、堅実な名誉を目指していくことはできないのだろうか。