国民戦線初代党首の父ジャン=マリー・ルペンと現党首の娘マリーヌ・ルペン〔PHOTO〕gettyimages
フランス 大統領選
ルペンの正体(2)一家を襲ったテロ、ガス室発言、国民戦線の躍進
ポピュリズムの時代へ

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ルペン一家を狙ったテロ

国民戦線の内部は最初から、「新秩序」の若い武闘派と、大衆迎合的なルペン周辺の一群とにわかれていた。

しかし、「新秩序」は左翼団体や警察と市街戦を繰り広げた結果、翌1973年に解散を命じられ、大きく力をそがれた。これを機に、ルペンは次第に党内での主導権を確立した。

1974年、ルペンは初めて大統領選に立候補した。得票は19万票あまり、有効投票の0.75%に過ぎなかった。大統領には中道のヴァレリー・ジスカール=デスタンが選ばれた。

ジスカール=デスタン政権時代はルペンと国民戦線にとって、次の飛躍を準備する期間となった。この間、1976年に起きた二つの出来事で、ルペン一家の生活は変化し、大きく揺れた。

 

一つは、早世した富豪の支持者の遺産と、富豪が所有していたパリ郊外の高級住宅街サンクルーの城館を手に入れ、ルペン一家が突然大金持ちになったことである。

それまでルペンは、党首でありながら生活に困り、代理店の経営をしばらく続けたほどだった。この相続についてはルペン側の陰謀が取りざたされ、富豪の遺族も異議を唱えて泥沼の係争に発展したが、最終的にルペンが勝利を収めた。

もう一つは、ルペン一家を襲ったテロだった。

一家がまだ城館に引っ越す前、暮らしていたパリ市内のアパルトマンの階段に仕掛けられたダイナマイトが爆発した。隣家の赤ちゃんがけがをしたものの、ルペン一家にけがはなかった。

テロ現場爆弾テロにあったルペンのアパルトマン。1976年〔PHOTO〕gettyimages

「ちょうど寝入った頃だったと思う。不意に私は目を覚ました。寒気と、奇妙な静けさが支配していた。ベッドの上にも部屋の中にもガラスの破片が散らかっているのに気づいて、起き上がった。何より不気味だったのは、信じられないほどの、重苦しく、どんよりとした静けさだった」

当時8歳だったマリーヌ・ルペンは、後に自伝『流れに抗して』で、その夜の記憶をこう描いている。その印象は、幼い彼女にとって衝撃的だったようだ。マリーヌはこうも記している。

「私の父は政治家なのだ。恐怖の夜を経験して初めて、私は気づいたのだった」

事件の背景は、40年を経ても解明されていない。政敵によるものと当時は考えられたが、富豪の遺産相続と関連づける説から、果てはルペンの自作自演説まで乱れ飛んだ。

その頃はまだ、政治的な暗殺が珍しくない時代だった。国民戦線のナンバーツーとして武闘派を率いていたフランソワ・デュプラは2年後の1978年、車に仕掛けられた爆弾によって殺害されたが、この事件も迷宮入りした。